つみきのいえ/加藤久仁生監督

「つみきのいえ」(加藤久仁生監督)を観た。言うまでもなく、第81回アカデミー賞短編アニメ映画賞を獲得した作品。約12分のとても静かな作品である。アカデミー賞二冠のニュースを耳にした時、「おくりびと」よりはまず、こちらの短編に興味を持った。これはずばり直感だね。そして、TSUTAYAにぶらり出かけると、なんと準新作で既にレンタルしてるやん! 12分という短さゆえ、自治会長という忙しい身分でも、なんとか時間を作れそう・・と判断して、レンタルする事にした。そうしてまずは独りで観たところ・・観ている途中から涙がじわじわ溢れてくる。そして本編が終わった後も、その涙が止まらない。いわゆる「号泣」というのではなく、あくまでも「静かに」涙が溢れるのだ。そして数日後、夫婦でもう一度本作を鑑賞した。すると、独りで観る時よりももっと涙が溢れて困った。本編が終わった後、どれくらいの時間、涙が溢れただろう? 観ている時間よりは長かったような気がする。


本作は短編ながら、それだけの「不思議な力」を秘めている。そして、その作品としての「深み」は相当なものがあると思う。レンタルで二回観ただけでは「何故あれほどまでに涙が出てきたのか」が分析できない。したがって、結局DVDを買ってしまった。二回観て二回とも、いや二回目の方がたくさん泣けちゃうというのは、私としては全くの異例に属する。もう、買わずにはいられなかったのである。そうしてDVDで何度も何度も、穴の開くほどに観て、例の「不可思議な涙」の分析をしたので、以下に記す。

何故泣いたのか? 結論から言うと、心の深層で主人公の老人と「将来の自分」が重なった可能性がある。その哀しい一致に、無意識の中で打ちのめされる自分がいた。涙は、悲しみであり畏れだったと思う。老人が「積み木のような家」を下へ下へと降りて行く過程で、その感情は強くなっていく。つまり「虚無に対する悲しみ、畏れ」だな。一見優しい作画だけど、その思想はとても厳しい深淵にある。人生を描いているのだから、当たり前だけど。

加藤監督は、作画に関する一般的な指揮と共に「背景」を担当している。まるちょうは、この事実に注目したい。本作で描かれる背景って、複雑な色合いの独特の「陰影」を含んでいる。そのこだわりようは、尋常ではないと思えるくらいだ。その陰影は、温かいようでもあり、悲しいようでもある。なにか「愛着」を感じずにはいられないのだ。まるで「人生のシミ」みたい、と表現したら可笑しいだろうか。でも、この陰影のおかげで、心が落ち着くんだよね。そして素直にストーリーに入って行ける。

老人は、下へ下へと潜るにつれ、自分の現在の「孤独」を確認していく。下に行けば行くほど、切なくて苦しい。でも意外性のあるラストで、そうした切なさは救われる。「昔はこうしたな」という風に、グラスをカチンと合わせる。その乾いた響きが感傷を断ち切る。そこには、一種の潔い「諦念」があると思うんだけど。この上品な幕引きのおかげで、視聴者は「極上の余韻」を味わうことができるのだ。

さて、三木清曰く「虚無は人間の条件である」と。分かり易く言うと、人間の原点、起点は「虚無」なのだ。そこから様々の形成が行われ「人生」が紡がれる。いろんな喜び、悲しみがあり、そうして結局最後は虚無に帰する。死ぬ時は、誰もが「独り」なのである。その厳然たる真理を、あくまで平静に描いているのが本作だと思うんだけど。あえて難しく言うと「虚無の実在性」を、ストーリーと音楽、そして上記の「陰影」でもって、複合的かつ効果的に描いている。その辺が本作の並外れた部分だろうと、まるちょうは分析します。興味のある方は、ぜひDVD買って下さい。現在YouTubeでも観れるけど、そりゃ加藤監督、というかこの作品に失礼というものですよ。以上「つみきのいえ」の感想を記しました。