ナインハーフ/エイドリアン・ライン監督

「ナインハーフ」(エイドリアン・ライン監督)を観た。1986年公開のちょい古い映画。主演はもちろん、ミッキー・ロークとキム・ベイシンガー。学生の頃、本作をレンタルビデオで鑑賞して「やり過ごせない何か」を感じ取った。だからこそ、40代の今になって、アマゾンで中古DVDが高値で取引されていて、思わず手が伸びてしまった。高値でも観たいと思わせる「何か」が、本作には含まれていたのだ。今回再び鑑賞して、その「何か」が、ぼんやりと解ったような気がしたので、Blogに記しておく。便宜的に、次のふたつの軸で語ります。

#1 本能的な性愛の行く末
#2 鮮烈で官能的な映像


まず#1から。まるちょうが思うに、この映画はとても「絵画的」ということ。#2とも関連するけど、まさに右脳で楽しむ映画だと思う。論理で観てはいけない。感じること。そういう観点で楽しむと、本作は「男と女の出会いと別れ」をごく自然に描いたものと捉えてもいいんじゃないかと思う。男と女の出会いから別れに至る時間が「9週半」というのは、とても現実的な数字じゃないかと思うんだけど。もちろん、その男女関係が「あくまで本能的」であった場合だけどね。

本能的なだけの愛は、セクシーで危険な香りがして、時に暴力的である。女性って、潜在的に「男性による征服」を望んでいると言ったら、怒られるかな? ミッキー演じるジョンは、その願望を存分に満たしてくれる存在である。ジョンが、キム演じるエリザベスを弄ぶシーンに、エイドリアン・ライン独特のエロのセンスを感じる。この人の「エロ」は、とても上品なんだよね。おしゃれ。ひとつだけシーンを挙げるとすれば、やはりアレでしょう。ジョンがエリザベスを後ろから、お気に入りのスカーフでくるんで抱きしめちゃうところ。あの場面でのジョンの殺し文句。

「これがぼくの警告だ」

これ、戸田奈津子の訳なんだけど、原語が分からない! ミッキーが何て発音しているか、それが知りたいんだけど、どうしても分からない!(>_<) 手持ちのDVDは、何故か英語字幕がないのである。けしからん。高い金払ったのに! 閑話休題。この日本語の科白って、どういう意味だろう? 「これから行くとこ行っちゃうよ~Ψ( ̄∀ ̄)Ψ」てな感じなのか?←自分の想像力の浅さに乾杯。あんなんされたら、どんな女もとろけちゃうよね~。困った映画だ。監督も脚本家も、もちろん俳優も。

次に#2。一番好きなシーンがYouTubeにアップされていたので、載っけておく。これ、学生時代に観て、とても新鮮に映った。食欲と性欲は結びついているというが、それを地でいく映像である。



食べ物の鮮やかな接写とキムの奔放な食べ方がエロい。そして映像に微塵も暗さがないのがよい。撮影の人の手柄なんだろうな。食べ物がどれも美味しそうなんだもん。そしてキムの舌と唇がとりあえずエロい。牛乳をガブガブとこぼしながら飲むシーンなんて、めちゃエロチックだと思う。そう、このシーンのキモは「行儀の悪さ」。「食べ物を粗末にして!」という左脳的な思考は、このシーンには馴染まない。エントロピーの増大こそが、エロを彩るのだ。最後の蜂蜜は、トドメ。キムの太ももにトロトロ蜂蜜をかけて、ミッキーがそっと撫でるシーンは、なんちゅうかエロい。←こればっか(笑)。このシーンを観て「後片付けが大変だな」と考えるあなたは、ずばり失格です。もう少し心を開けましょう。映画は、実現の難しい願望を満たしてくれる、便利なツールなのです。楽しまなきゃ!

最後に、また#1に戻って、次の言葉で締めくくり。エリザベスのラストの科白。

You knew it’d be over when one of us said stop. You wouldn’t say it, and I almost waited too long.

まるちょう独自の訳でどうぞ。

どちらかが「こんな関係やめよう」と言えば、終りになるだろうって、あなたは分かっていた筈よね。でもあなたは言わなかった。私もずるずるここまできちゃった。

本能的なだけの愛の本質は、要するに「肉体の快楽」である。社会性がないのだ。ゲームだね。ゲームとしての男女関係は、まるちょうは苦手です。9週半。ゲームを楽しむ時間としては、妥当な線なのかもしれない。そして、ゲームを夢見てこつこつ左脳的に生きる視聴者に、一種のカタルシスを与えるのだと思う。久しぶりに観て、そんな風に感じた。以上「ナインハーフ」について、語りました。