初春の舞鶴遠征

22日と23日、単身舞鶴へ行っていた。目的は、親戚の叔母と小学生一年時の恩師に逢うため。とても密度の濃い時間だったので、書き留めておく。

元来この舞鶴遠征は、恩師に逢うための初春の恒例行事であった。しかし、今年は少し状況が違う。舞鶴在住の60代半ばの叔母が大変なことになっていた。その詳細は伏せておくけれども、ひとことで言うと、息子さんの不幸。7年前にも夫に不幸があったし、その翌年にも義母の死去(これは天寿だけど)があった。そんなわけで、今は独りで舞鶴に暮らしておられる。とりあえず、息子さんの参拝だけはしておきたかった。従兄弟ということになるけど、子供時代からとても親しくしていた従兄弟だった。もちろん、年代は私とほぼ同じ。叔母の心痛はいかばかりだっただろう。


今月の初め頃、母にそのことを電話で尋ねてみた。つまり、舞鶴に行くついでに叔母を訪問して、いとこの参拝をすること。すると叔母と仲の良い母は「それはいいことや!」と感激し「そんなん、ホテルなんか水臭い。叔母ちゃんのところに泊めてもらい」と畳み掛けた。その時点で既にホテルを取っていたので、少し面食らったけど、よくよく考えてみると、その選択肢は「アリ」だと思えるようになってきたのだ。叔母には、95年から97年の三年間、私の体調の悪い時期に一方ならぬお世話になった。現在独り暮らしの叔母にとって、一泊私を世話することは、むしろ嬉しいくらいだろう。もちろん、ホテルのように「まるきり力を抜いて、ぐだぐだ」には過ごせないけど、やはり叔母のことを考えると、一宿一飯の恩義というのは悪くない選択だと思った。

ちうわけで、ホテルはキャンセル。22日の日曜午前は健診業務の仕事があり、その後JR特急にて舞鶴へ向かう。東舞鶴駅には叔母がすでに待っていて、叔母の車で自宅へ向かう。府営マンションの質素な2DKで、とりあえず、今は亡き息子さんの供養を。やんちゃな奴だったけど、この世にいなくなるということは、とても虚しいものだ。一番近い記憶をたどると、私の結婚式披露宴で正装で祝ってくれたことだろうか。子供時代は叔母に「この子はまた、調子づいて!」とよく怒られていたっけ。このフレーズは、30年ほど経った現在でも、私の頭にこびりついている。神妙な心持ちで合掌した。成仏してな、安らかに眠れ。

それから叔母と、今は亡き息子さんのことについて、いろいろ語り合った。実を言うと、叔母はもっとやつれ切った感じかなと心配していた。もちろん、表情には若干の疲れも見えなくはなかったけど、見事に立ち直っておられた。息子さんの不幸が昨年の秋であることを考えると、とても強い人だと思わずにいられなかった。少し昼寝して、叔母お手製の夕食をいただく。舞鶴らしく、魚づくしで美味しくいただいた。その後も、あれこれ語り合い。叔母は既に息子がいなくなったことには、ほぼ完全に「けり」を付けていた。話の内容は、将来のことがメイン。私も将来のことについて、いろいろ話した。これ言っていいのかな? まぁ、いいか。叔母は死後のことまで考えていて、ずばり「献体」を考えておられた。なんと潔いことか。叔母はこういうと失礼だけど、いわゆる頭のよい人ではない。しかし、その魂の高潔なことよ! 自分の「お骨」を引き取る人がいないことを見越して、「献体」を考えているという。叔母は、しかし具体的なやり方については全く無知だったので、私が調べてみるということになった。

翌日は、朝8時半頃に家を出て、叔母に車で送っていただく。中舞鶴の恩師の家の前で降ろしていただき、お別れとなった。車中で「また来年も来ていいですか?」と尋ねたら「もちろんいいよ」との返事をいただいた。これからも元気で、本当に元気で生きて欲しいと思う。

さて今度は小学校の恩師訪問。今年の秋に90歳になられる。「美しく老いる」というコンテストがあったとしたら、間違いなく上位に食い込む筈。毎年、二時間半くらいおしゃべりして楽しい時間を過ごす。しかし実は、今年は少し心配なことがあった。50代半ばの息子さんから、事前に私宛に手紙をいただき、内視鏡的な大腸ポリープ切除の必要性について質問されていた。大腸術後なので、相当な疼痛があると予想される。本人さんは、できればやりたくないという。でも医師の立場から言うと、やはり三年前にあったみっつのポリープの癌化が非常に心配。お蝶夫人♪と相談の上、麻酔の上で大腸ポリープ切除してはどうかという提案をしていた。

そして玄関の前に立ち、呼び鈴を押す。が、誰も出てこない。そういえば、お蝶夫人♪にメールするの忘れていたな、と玄関前でメールを打っていると、その息子さんが現れた。実は初対面だったんだけど、すぐにそれと解った。部屋に入って、すぐに例の話になる。ポリープ切除に関しては、いちおう麻酔をかけてする決心を固めたと。後日施行されるので、また結果をお知らせします、とのことだった。

そしてそれから先生とのおしゃべり。先生は、本当に変わらない。もうすぐ90歳というのを聞いて、ほんま信じられなかった。頭の回転も、私と変わらない。若干耳は遠いけど、会話に困るほどじゃないし。家族ことや社会情勢や、もちろん息子さんの病状など、そして例の私の叔母のことなども、いろいろ話した。こうした超高齢の人って、本当に毎日が闘いだろうと思う。例えばひとつ肺炎や大腿骨頸部骨折など患うと、命取り。迫り来る「老い」との闘いである。先生もまた「潔い」生き方をされている。「老醜」という言葉からは、全く別次元に生きておられる。毎年お話しできるのは、ありがたいことだと思う。先生、また来年参ります。

帰りはいつもタクシーなのだが、今年は息子さんがマイカーで西舞鶴駅まで送っていただいた。こうして、今年も春の舞鶴遠征が終わった。やはり叔母に会って話し合えたのは、有意義だったと思っている。以上長くなりましたが、22、23日の出来事について語りました。