医療にはハートが大事です

うちは読売新聞をとっているのだが、去る11月2日9日に「読者と記者の日曜便」という囲み記事で面白いのがあったので、取り上げてみる。まずEさんからの手紙が紹介される。題名は「納得できぬ夫の死」。

今も、57歳で亡くなった主人がかわいそうでならないのです。去年の暮れ、主人は頭痛を訴えて受診した近くの病院で脳内出血と言われ、即入院となりました。翌朝には食事もとれるほどで「早く診てもらったおかげで命拾いした」と喜んでいました。私は「家に電話して皆を安心させてくる」と言って病室を離れました。ところがわずか10分後。戻ってみると、主人は真っ青な顔をして冷や汗をだらだら流しながら「頭が割れそうや」とうめいていて、「あとを頼む」と2回繰り返し、意識不明となりました。脳動脈瘤が破裂したとのことで、83日後、転院先で帰らぬ人となりました。院長は「大変珍しい部位だったので見落とした」と言い、謝ってもくれませんでした。若い女性の医師からは「今回はいい勉強させてもらいました」と言われました。一人の人間の命を何と考えているのでしょうか。情けない話です。とても主人の死を納得することができません。



このエピソードを出発点に、記者と読者の間でいろいろな意見が交わされる。記者の「医は仁術」を正面切って求める視点。医療従事者からの「医療はある患者さんの生き様が次の患者さんの治療に役立っている」という視点。医師からの「医師も人間であり、昨今の医師不足などを考えると、正直辛いものがある」という視点。

こうした記事を読んでまるちょうが一番思うのは、病院勤務医のしんどさ。治療が奏効しなかった患者さんに、どれだけ感情移入してよいか。簡単に言うと、患者さんが死ぬ度に担当医は死ねないのだ。他の患者さんもいるし、もちろん自分の家族もいる。治療の難しい患者さんのために頭を抱えて、自分が病気なったとしたら、全く本末転倒である。それはある意味、医者として失格だし、まさに「医者の不養生」に他ならない。

ただ、患者さんを客観的に冷静に分析して診ればそれで全部解決かというと、そうではない。医者は神ではない。明らかに失敗は付きものなのだ。上記のエピソードは、くも膜下出血の見落とし。こうした「医師として失敗した時の対応」は、その人の「良心」を表すものだけど、その一方で「技術」でもあると思う。一番大事なのは、その家族の心情に寄り添うこと。その上で、隠さず率直に説明し、謝ること。そのために、医師はこのガチンコの場面で、深謀遠慮の上で言葉を選ばなければならない。その辺は間違いなく「技術」と言える。上記のエピソードでは「良心」及び「技術」両面で対応がうまくできていない。記者は次の様にまとめている。

私が伝えたかったのは、病院で患者や家族は、すがるほどに医師の誠意を感じたがっているということです。医療の本質ではないというご指摘もあろうと思います。それでも、命を落とすような局面では尚更のこと、「良い先生が手を尽くしてくれたのだから」と言い聞かせることで、家族は懸命に現実を受け入れようとするのです。

既に書いた通り、医師が自分の「誠意」を患者に伝えるのは、医師としての良心と技術に依るのだと思う。どちらが欠けても駄目。まるちょうは診療所の外来担当医なので、こうした生死を分ける場面というのは、そんなに立ち会うことはない。病棟勤務の先生方は、本当に大変だろうと思う。まるちょうにはとても無理。神経がもたない。最後に元看護師からの印象的な文章を載せておく。

「頭の血管切れとる。瀬戸際やけど、頑張るで」と手術室へ。最期という時は「もうあかん」と言いながら、ご家族への説明は行き届き、だれからも「ありがとうございました」と頭を下げられる脳神経外科の部長さんがいました。口は悪かったですが、医療にはハートが大事と痛感させられたものです。

ハートとは何か? これだけは学校で学べないものだと思う。その人の生き様とか価値観とか、内から湧き出てくるものだと思う。敢えて言うなら「逃げない姿勢」というか。本当に医師という職業は大変です。でも患者さんやその家族には、なんとか納得してもらえる医療を提供したい。それだけはホントにそう思います。

まとまり無くなりましたが、新聞記事から取り上げてみました。