坂–人間交差点から

新コーナー! 「漫画でBlog」です。主に短編漫画をネタに語ってみたい。画像の貼付けは、著作権的には「引用」と判断しますので、堂々と貼付けて行きます。画像をもとに、何かを新たに表現できていれば問題ないと思うので。第一回は「人間交差点」(矢島正雄原作、弘兼憲史作画)から。「坂」という短編をモチーフに語ってみたい。まずはあらすじから。ちょっと長くなりますが・・

昭和39年。テレビ局の制作という派手な職業でハンサムな父。小学生の裕子は、憧れの父に職場へ連れて行ってもらうことになった。嬉しさで有頂天の裕子は、職場へ続く坂道であることを思いつく。父の目線で世界を見たらどんなに素敵だろう! はしゃいで先に進む裕子。しかし、実際に目にしたのは、子供の裕子の知らない父の姿だった。

父の若い女性に対する執拗で好色な視線。裕子の中で、自慢の父が単なるだらしない男に変化して行くのに、さほどの時間も必要なかった。裕子の大学三年のときに母は他界。父は三ヶ月もすると、家に戻らなくなった。他の女と一緒に暮らし始めたのだ。それから裕子は何人かの男性と付き合うが、相手の男と父の姿が重なって、結局34歳の今まで一人でやってきた。

ある日、今は年老いた父が突然裕子を訪ねてくる。用件は、連れ合いの女が癌で、その手術代の無心。もちろん裕子は「冗談じゃないわよ!」とはねつける。帰りの別れ際で「今度一緒に飯でも食おうな、裕子」と父。そして自宅に帰って一人で夕食を食べて、今日が「父の日」であることに気付く。煙草を吸いながら涙する裕子。彼女の中で、何かが変化した。



何も起こらない、何もないのが人の一生なら、一人ぼっちがいい。

裏切るなら、一人で寂しい方がいい。
これが父の反面教師によって培われた裕子の哲学だった。昭和39年というテレビというメディアが隆盛を極めた時代。父への大いなる期待と大いなる失望。男という動物のエゴと不潔さ。夫婦という絆の脆さ。そんなこんなが裕子の中で醸成され、上記のような生き方を選んでしまった。

まるちょうが痛々しく感じたのは、裕子が独りで夕食を作って独りで食べて、独りで後片付けしている場面。とても潔いんだけど、なにか悲しい。まさに「裏切るなら、独りで寂しい方がいい」という諦観が垣間みれる場面である。でも30代って、まだまだ若いのに! まるちょうはそう思えるのだが・・

「父の日」で裕子が気づいたのは、親子の立場の逆転。勝手な生き方をした父に冷たくするばかりでは、自分自身が「子供のまま」であるという自覚。今は年老いた父に、優しい贈り物をしてもよいではないか。父をいい加減許してあげてもいいじゃないか。許すことから、人と人の繋がりは始まるのだから。

そしてラストシーン。父と例の坂を一緒に登る。小学生の時と違い、今度は同じくらいの視線で・・ 子供の頃許せなかった父のエゴイズムを理解できるようになった30代半ばの自分。父を許すことで裕子はひとつ心の扉を開いて、上記の「諦観」を封印したのだと思う。

教訓。自分が充分に大人になったと思うなら、親を許すこと。そこからまた新たな親子関係が構築され、自分自身も成長するのかもしれない。

以上「人間交差点」で語ってみました。