オタク考

お題を決めて語るコーナー! 今回は「オタク考」と題してひとつ語ってみたい。6月30日の読売新聞の「論壇」のコーナーで「宮崎勤死刑囚と秋葉原殺傷事件」という題目で三人の識者が各々の意見を述べていた。そこで改めて「オタクってなんだろう?」と思ったわけ。識者の意見も参照しながら、自分なりに考えてみたい。

まず、まるちょうは、かなりオタクです。厳密に言うと「オタク的要素がわりと入っている」という感じ。パソコンは大好きだし、一つのことに没頭して、その世界に浸るのも好き。しかし現状で、特に社会生活でそれほど困ったことはない。まぁもちろん、人付き合いは苦手だけど。それなりに仕事もこなしている。まるちょうみたいな人、結構いるんじゃないかな?


宮崎死刑囚(執行済み)と加藤容疑者は、質的にはかなり違うが、どちらも「オタク的要素」を内包した若者であった。京都大学教授の大澤真幸氏はこう語る。

おたく的なるものは小さな趣味の世界を、宇宙の全体と見なす。いわば宇宙の箱庭化であり、そこでは危険な他者に会わずに済む。ネットも脱身体化の感覚を特徴とし、匿名の他者を求める。

「脱身体化」というのは、ひとつのキーワードだと思う。「肉」を伴った人間関係があるかどうか、という点は「オタクの異常度」を測るのに重要かと思う。逆に言えば、そうしたちゃんとした人間関係があれば、オタクだとしても、そう問題ではないのだろう。しかし、オタクを無反省に邁進して行くと、必然的に「脱身体化」は進んで行く。オタクという生き方は、そうした危険を常に孕んでいる。親は、その辺をしっかりとコントロールしてやることが必要だろう。

ふたつの事件の社会的側面について作家の星野智幸氏がこう述べている。

犯罪者を、自分とは全然違った異常な人間としてやり過ごす傾向は、この社会でさらに強まっている。「普通」というラインの内側に入ろうとする競争は熾烈さを増していて、「負け組」「非モテ」など、線引きの基準が次々に更新されていく。(中略)「異常」な人間をこの社会に蔓延させるような排除の構造が生まれている以上、私たち一人一人がそこに加担している。

いかなる人も、内側に弱さを持っている。上記のような「線引き」は、その「弱さ」の認識を否定するものだ。ふたつの事件が、決して共感できないもの、理解できないものであったとしても、「まず排除」という姿勢はよくないと思う。問題点を自分なりに整理して、自分の弱さと照合する必要があるだろう。ただ傲慢に排除の側に回るばかりでは、全く進歩はないし、腐敗していくのみである。

宮崎死刑囚も加藤容疑者も、家族の絆という点では絶望的に恵まれなかったようだ。親からの愛情を絶たれて、必死にもがいて、辿り着いたのが「オタク」だったように思う。二人は「藁をもすがる思いで」オタクに邁進したのだろう。大澤氏は加藤容疑者について、こう述べている。

匿名の他者というネットの中の神に呼びかけ、世界の中心である秋葉原で、神が無視できないような事件を起こしたように思える。

たとえ宇宙を箱庭化できたとしても、他者との繋がりを希求するのは、人間である以上当然のこと。でもそこにこそ、こうした事件の悲劇性があるのだと思う。

やはり様々のリアルな人間関係。当たり前のことだけど、ここがしっかりしていれば、オタク自体は問題ではない。むしろ一種の文化として、存在意義は大いにあるのだと思う。親子、友人、恋人・・そんな人と人との繋がりが、当たり前だけど重要である。親はそうした子供の人間関係に目を配りながら、「オタクにおける我が子の立ち位置」について認識する必要があるだろう。

ちょっと長くなりましたが「オタク考」と題して語ってみました。