愛し愛されることは人生で大切か?

「村上さんのQ&A」のコーナー! 今回も「そうだ、村上さんに聞いてみよう」から、質疑応答を抜粋して考察してみる。

<質問>質問は「愛し愛されることは人生で大切か?」ということです。普通に大学を卒業して勤めている友人は何故かみんなNoで、私を含めてYesの人の生活は、Noの人ほどうまく行っていないことに驚きました。ちなみに私は大学六年目は確実で、長期の旅行の計画もあり、ちょっぴり人生に不安を抱きつつあります。春樹さんはいかがですか?

<村上さんの回答>僕にはよく分からないのですが、もし人を愛したり人に愛されたりすることが、人生にとって大事なことではないのだとしたら、「人生にとって大事なこと」っていったい何なんでしょうね? 僕にはちょっと想像できません。ドストエフスキーは「人生における地獄とは、人を愛せないことだ」と書いていますが、そして僕も基本的にはそう感じているのですが、ドストエフスキーと僕は間違っているのでしょうか?


<考察>質問者は女子大の留年組のようだが、言わんとすることは何となく分かる。人生に恋愛を差し入れなければ、どんなに計算ずくになるだろう? 愛し愛されるということがなければ、いかに狂いなく生きられるか。しかし、愛のない人生に、いったいどれだけの価値があるんだろう? 愛もなく計算通りに生きて、それで本当にいいことがあるんだろうか? 質問の中にあるNoの人は、根本的に悲観主義者だ。踏み外すことを過大に恐れる人だと思う。それで本人が楽しいかといえば、そうでもないだろう。ケチ臭い自分に嫌気がさしてるかもしれない。

まるちょう的観点から言うと、人生踏み外してなんぼである。レールに乗ったまま、何の傷も受けずに育つことほど恐ろしいことはない。ある程度の怪我をすることが、人生を学ぶ転機になりうる。もちろん命を脅かすほどの重傷はよくないけどね。長いスパンで考えると、過去に傷を負った経験のある人の方が、その後の人生は充実すると思う。

というか、愛し愛されることの喜びを考えたとき、その先にある悲しみや辛さを恐れるなんて馬鹿げている。人生を切り開くのは楽観主義だというのがまるちょうの主張です。結局「愛し愛されることは人生で大切か?」という問いそのものがナンセンスだと思う。ずばり、そうでしょう。

以上「村上さんのQ&A」のコーナーでした。