村上春樹、河合隼雄に会いにいく/村上春樹、河合隼雄

「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」(村上春樹、河合隼雄共著)を読んだ。村上さんの短編を探していて、ちょっと目に留まったので読んでみたわけ。フロイトに挑戦中なので、心理学者である河合先生にも興味があった。もちろんこれは「短編集」ではなく、お二人の対談です。しかし予想以上に面白く、得るところの多い読書となった。

河合隼雄という人は、ひとことで言うと「全く私好み」である。プロフィールを見ると「京大名誉教授で日本のユング派心理学の第一人者」とある。そして、惜しいことに今年の夏に逝去された。厳めしい肩書きを持たれているが、意外なほどの柔軟性がある。一方で凄い緻密さを見せながら、他方では赤子のような素直さがある。要するに「様々の矛盾をうまく内包してコントロールされている人」なんだと思う。これを機に、河合先生の著作も少しかじろうかなと思っている。本書を読んで啓蒙された箇所はたくさんあるのだが、ふたつ引用して感想を記してみたい。


ひとつめは「結婚と『井戸掘り』」に関する対話。河合先生の言葉を引用する。

愛し合っているふたりが結婚したら幸福になるという、そんなばかな話はない。そんなことを思って結婚するから憂うつになるんですね。なんのために結婚して夫婦になるのかといったら、苦しむために「井戸掘り」をするためなんだ、というのがぼくの結論なのです。

これ、含蓄があって好き。「井戸掘り」というイメージがとても面白い。決して上に向かわないのね。「構築する」というのではなく、下向きに「掘る」。お互いに理解を深めようとすると、ある意味でそうなるのかもしれない。「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」というニーチェの言葉が連想された。相互理解とは、相手のいいところばかりでなく、汚いところも含めて認めることである。夫婦同士で長く付き合うと、否が応でも「嫌なところ」は見えてくる。しかし、そこからまさに「井戸掘り」は始まるのだ。もちろん、苦しみながら井戸を掘るばかりでは辛すぎる。でも、井戸を掘らないと愛は深まらないのも事実なんだろうと思う。難しいところですね。

次に「コミットメントということ」という項から、村上さんの言葉を引用してみる。

コミットメント(関わり)ということについて最近よく考えるんです。たとえば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってはものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(関わりのなさ)というのがぼくにとって大事なことだったんですが。

本書では「コミット」と「デタッチ」というふたつの対立する概念がよく用いられる。これ、まるちょうにとっては、なかなかに新鮮な考え方だった。まるちょうは、コミットするのが凄く下手な人です。もっと厳密に言うと、コミットのコントロールができない。関わり始めると、とことん関わってしまう。そして、自分をすり減らす。だから、普段は基本的にデタッチの姿勢で、クールなように振る舞っている。そんな自分にとってBlogというツールは、不特定の人にコミットするのに最適な方法なわけ。文字ベースにすると、わりとコントロールしてコミットできるから不思議だ。そしてBlogなら、もともと距離的にデタッチしているわけだし、気が楽。

しかし、まるろぐの現状で、どれだけの人にコミットできているかとなると、とても心細い。コメントのやりとりとか、ほとんどないし。要するに、まるちょうという人は「デタッチメントが楽でいいやん」というスタンスなんだねぇ。困ったもんだ。これではいかんいかん。来年は、もう少しコミットという行為を意識してリアルもネットも生活したいと思うのだった。

以上「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」について語ってみました。