いつもの雑踏いつもの場所で/山田太一

いつもの雑踏いつもの場所で」(山田太一著)を再読した。山田太一のエッセイはかなり好きで、学生時代に読んでから、ずっと書棚に並んでいた。状況が変わって印象が変わることって結構あるから、どんなもんかと再読してみたわけ。そうして改めて、山田さんという人は、共感できるところの多い人だと感じた。ざわざわした心が、すっと落ち着くというような一文が、何気なく書いてあったりする。その度に心の中で「うんうん」とうなずく。


ふたつのエッセイについて語ってみる。

まずは「私の好きな言葉」という短文。カート・ヴォネガットの言葉・・「愛は敗れても親切は勝つ」。これ、なるほどねぇ、と感心。人を愛するのは難しい。というか、ややこしい。努力だけではうまく行かないこともある。でも、親切ならば、努力はある程度報われるのではないか。人に親切であったり、礼儀正しかったり、寛大であったり・・そんなことだったらできるのではないか、ということ。まるちょう的には「愛は女性的、親切は男性的」と区別します。愛って、尽くしても裏切られることがあったりする。不条理というのか・・理屈でうまくいかないことが多いわけです。それに対して親切は、対象が不特定多数で、自分に一貫性が求められる代わりに、そんなに裏切られることがない。

例えば、結婚生活というものは、年を経ごとに「愛から親切へ」と比重が変わる方が、うまく行くのではないかと思ったりする。つまり「恋人から人生のパートナーへ」の関係の変化ね。まぁでも「愛に敗れる」ことは、できれば避けたいと思うのは私だけではないでしょうね(笑)。

次に「味気ない反復の呪縛」というエッセイ。これ、まるちょうが以前から思っていたことを、そのまま代弁されていたので、驚いてしまった。要するに、メディアにより街に氾濫しているイメージが、ある意味、虚偽を振りまいているという真実。そして、受け手側も、それに知らず知らずのうちに影響されている。例えば、街を歩いていると、異様に足と腕の細い女性を見かけるけど、あれって本当に美しいか? 確かに、それを美しいと感じる男性もいるだろう。でも、それって本当にその人自身の感性だろうか? 単にメディアにより氾濫したイメージに呪縛されているだけではないのか?

男性側には、いろんな嗜好があっていいはず。例えば私自身は、どちらかというとぽっちゃりした二の腕の方が親近感がある。細い二の腕は、なんか人工物のようで落ち着かない。マス・メディアの罪は、その「画一性」にある。要するに最大公約数的なイメージを発信するのが一番無難だし、部数(視聴率)も伸ばせるわけだ。そこでは「人間は一人一人違う」という大前提が、置いてきぼりになっている。

山田さんは言う。「多くの人が、偽の夢を否応なく追わされている」と。また逆に「それらの夢から、私たちもマス・メディアも自由になれない」。私たちの本当の欲求は別のところにあるのでなないか。自分が一番何を欲しているのかを知るためには、失敗を怖れない行動しかない。安穏とした雑誌漁りではなく、ね。安逸なメディアのイメージの受け売りだけでは、幸せはつかめない。もちろん「メディア=悪」というわけでもないから、その距離感が大事なんだろうな。自分を正確に捉える「哲学」が必要だと思うが・・あなたはどうでしょうか?

以上、山田太一のエッセイ本に関連して語ってみました。