長浜園児殺害事件

時事問題を語るコーナー! 今回のテーマは「長浜園児殺害事件」です。2/17の出来事だから、もう一ヶ月以上前になるんだね。亡くなった二人の園児は何の罪もなく、親御さんの無念はいかばかりか。極刑が確定したとしても、その悲しみが癒えることはない。この件でBlogを書くにあたり、まずは亡くなった武友若菜ちゃんと佐野迅ちゃんのご冥福を謹んでお祈りいたします。

さて、この事件において一番不可解なのが、鄭永善容疑者(日本名・谷口充恵)(34)の殺しの動機だろう。ちょうど同時期に、ニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」の第一部を読んでいたのだが、面白いことが書いてあった。


「蒼白の犯罪者」という項なのだが、そこでは強盗殺人を犯した被告が裁判にかけられていて、その青ざめた犯罪者の心の深淵について説いている。なぜ、このような重大な犯罪を犯したのか? ツァラトゥストラ曰く「かれの『魂』は血を欲していたのだ。この人間は、刃物が与えるよろこびに飢えていたのだ!」と。まるちょうは直感的に、ニーチェの描くこの犯罪者と鄭容疑者をダブらせる。要するに「人を傷つけたい」という欲望が、身体の中で充溢して、抑えることができなかった。そして、この目的のためには、自分より弱い存在が一番手頃だから、園児が標的となったと考える。もちろん、鄭被告がそのような極限状況となった要因は、いろいろあるだろう。その方面の調査も、もちろん重要なんだけど・・まるちょうは別の角度から考えてみたい。殺人を犯す時点では、ニーチェの言うとおり「最も深い意味で病気のかたまりであり、凶暴な蛇どものあつまり」だったろう。ニーチェはこう続ける「このあわれな『身体』を注視しなければならない!この身体が病み、悩み、渇望しているのだ」と。こうした病んだ存在にとって「殺人は快楽である」。誤解してはならないけど、ここで言う「病んだ」というのは「精神病」のことではありません。ニーチェ的な「身体」が病んでいるということ。お間違えのないように。

この「快楽としての殺人」に言及すると、どうしても例の神戸連続児童殺傷事件を思い出す。例の「酒鬼薔薇」ね。あれも「人を傷つけたい」という欲求そのものが一人歩きして、自分より弱い立場の人間を、これでもかというほど傷つけた。あの少年と鄭被告は、年齢も性別も国籍も違うけど、まるちょうの推測では同様の病みやすい素因が背景にあると思っている。つまり、そのような「病みやすい」人格的素地が背景にあり、様々な外的ストレスが重なって「病んだ身体」が出来上がったのだ。

一番大事なのは、世の中にはこうした「血を渇望する狂気」が存在するということだ。「狂気」と書いたけど、これも精神病とは直接関係ありません。何度も言うけどね。そういった個性が存在するということです。逆に言うと、そういう心が存在するからこそ、地球上から戦争が無くならないんだね。

こうした重大な事件が起こらないようにするには? まるちょう的には、そうした危うい人格的素地を抱えた人には、周囲が充分に気を配ることだと思う。結果論だけど、鄭被告が異文化の日本に嫁いだこと自体、無理だったのではないか。まぁ、あくまでも推論になっちゃうけど。

幼くて尊いふたつの命は既に失われた。どうやっても、もう還ってくることはない。こうして好き勝手にBlogに仕立てるのも、その痛みを考えると、すごく気が重いです。繰り返しになりますが、武友若菜ちゃんと佐野迅ちゃんの急逝を悼んで、結びの言葉とさせていただきます。