人間失格/太宰治

「人間失格」(太宰治著)を再読した。この作品は、往々にして太宰の自叙伝的な位置づけをされるのだけれど、私は必ずしもそうは思わない。主人公の葉蔵と大きく異なる点は、太宰は歴史に残る著作をいくつも残しているということである。それに対して、葉蔵はただ一方的に朽ち果てて廃人になるだけだ。だからこの作品は、あくまでも太宰の創り上げた虚構である。それを認識した上で、太宰は何を一番訴えたかったのか考えてみたい。


作中に「ヒラメ」とか「堀木」とか、世間によくいそうなタイプの人物が出てくる。なにがしかの社会的、個人的事情を抱えながら、それなりに生きている人たち。太宰が憎んだのは、こうした普通の人たちの「悪」である。自分では意識していない「怪奇」「悪辣」「古狸性」「妖婆性」(いずれも作中の言葉)です。 彼らによって、葉蔵は打ち破られ、精神病院に入院させられ、挙げ句の果ては、廃人として隠居することになる。太宰の主張は、そうした普通の人たちの「悪」に対する痛烈な批判だろう。しかし、翻ってみると、葉蔵のキャラクターには「悪」というものが、ほとんど認められない。つまり、葉蔵の問題点は、まさに「行き過ぎた善」なのだ。「悪」という外套に覆われていない、むき出しの魂。だからこそ、世間のちょっとした「悪」で傷ついてしまうのである。

葉蔵は悲痛に訴える。「無抵抗は罪なりや?」「無垢の信頼心は罪なりや?」と。しかし、社会の一般常識から言えば、どちらもある意味で罪だと思う。相手の攻撃に対しては、ちゃんとそれなりの抵抗が必要だし、相手に対する猜疑心というのも、ある程度は持つべきだろう。それが、処世術というものだ。そう、葉蔵には「世の中を渡る術」が欠落していた。というか、その背景となるべき「生きるビジョン」が無かった。更に言うなら「人生は闘いである」という基本的な信念が欠如していたと思う。流れ流されて生きていけるほど、人生は甘くないのだ。

葉蔵は、あるいは太宰は、人生のある時点で、生きかたを転換すべきだったかもしれない。自分の「行き過ぎた善」に甘んじることなく、もっと「悪」を学ぶべきだった。しかしおそらく、幼少時代の経験が大きいんだろうな。作中、葉蔵の両親は、彼のそうしたセンシティブな感性に全然気付いていないし、ちゃんと愛していたのかも心許ない。そして、女性の多い家族形態で、自立心の養成が阻害されていた可能性もある。また、下男下女からの性的な悪戯もあったようで、葉蔵あるいは太宰にとっては、相当なトラウマだっただろう。人間不信は、太宰にとって根源的なものだったかもしれない。要するに、そういった面では、彼はとてもかわいそうな人だったと言える。

ただ、太宰のひとつのプロテストは、明らかに奏功している。人間のさりげなくて恐ろしい「悪」を批判したこの「人間失格」は、間違いなく後世までずっと読み継がれるだろうし、影響を与え続けるだろうから。太宰自身の人生も、葉蔵までとは行かなくても、幸せなものではなかった。40歳足らずで自ら命を絶った彼にとって、本書は渾身の力を込めて綴った魂の作品だったろう。

最後に、彼へのレクイエムとして「月光」(鬼束ちひろ作)を贈る。

「こんなもののために生まれたんじゃない」
こう言える反発心を持ちたかったですね、太宰さん。合掌。