(再掲)リュック・ベッソンが描く「殺し屋」について想う

リュック・ベッソンが描く「殺し屋」が、なんか好きやねん。「ニキータ」の予告編を載っけておきます。「ニキータ」のラストシーン、シブいよねー。




まず思う。殺し屋が恋をしちゃ、いけないな。「殺し屋」は、冷酷無比なマシンとして、上からの命令にしたがい、任務を精確にまっとうする。それより上でも下でもない。単にそれだけ。それ以外は「無」とならなければならない。いわば「血と肉があってはいけない」ということ。

そこでリュック・ベッソンは思う。殺し屋だって人間じゃないの。うっかり「たがが外れる」ことだってあるよ。そうして「殺し屋が恋をする」というモチーフを描く映画がふたつできた。「ニキータ」と「レオン」である。絵空事と笑うなかれ。どんな人間も弱さをもっている。ベッソン監督は、冷酷無比の中にある人間らしさを描きたかったのだ。

ベッソン監督は殺し屋の黄金のルーチンを、「レオン」でさらりと描いている。観葉植物と牛乳、そしてアイロンがけ。そうして部屋の灯りを消してサングラスをかけて、瞑想。こうして彼は「無」になるのだ。瞑想の中では、彼は孤独ではない。いくら世界が荒涼としていたとしても、この瞬間は彼にとって辛くない。それはいわば、殺し屋としてのアイデンティティを取り戻すときなのだ。



さて、本題に入る。「ニキータ」について。人殺しの不良娘、ニキータ(アンヌ・パリロー)。その凶暴な生存本能を秘密警察に見込まれた彼女は、華麗な女殺し屋に仕立てあげられる。彼女の成長をずっと辛抱強く見守ってきたのが、指導員のボブ(チェッキー・カリョ)である。この人、めっちゃシブい。冷酷にニキータを操作し、訓練していく。「操作」と書いたけど、底流にはちゃんと愛がある。一種のパターナリズム(父権主義)みたいなものかな。

ニキータの表の顔は、ジョセフィーヌという看護師。ある日、スーパーのレジをしていたマルコ(ジャン=ユーグ・アングラード)という男性と恋に堕ちる。このマルコという男が、やさ男なんだけど、ニキータのことを本気で愛しちゃうのね。ニキータのことを心から心配するし、何かしてやりたいと思う。ニキータの任務に比べたら、カスみたいな男だけど、その「筋の入った想い」は正真正銘のほんものなのだ。ニキータはマルコのその愛を感じて、ただ泣く。泣くというか、それは救いだろう。地獄のような人生の中で、初めて本当の愛を教えてくれたんだから。泣きながら非情な任務を遂行するニキータは、それは可哀相としかいいようがない。

大きな任務で失敗したニキータ。憔悴する彼女に、マルコはその裏の顔を知っていたことを告白する。そしてそれでも彼女のことを愛していることを。熱く抱擁し、交わる二人。ここ、泣ける。そしてニキータは一人、逃亡の旅に出る。機密データが入ったマイクロフィルムは、マルコが預かった。そうしてラストシーン。マルコとボブが静かに語り合う。そう、ラストはごくごく静かに。



みなさんは、二人の間の火花が見えただろうか? 同じ女を愛した二人の男である。マルコは普通に一人の女として愛した。それも心底、惚れてしまった。一方、ボブはあくまでもプラトニックな愛だ。ニキータの才能を見抜き、有能な殺し屋として育て上げた。マルコは途中から煙草を吸う。これは、ボブへの反感を表していると思う。嫉妬だ。一方、ボブがにやりと笑う箇所がある。これはニキータの愛を悟ったからだ。その笑顔をみて、マルコは面白くない。こうして二人の距離はちぢまり、ボブの科白で〆。マルコもうなずくしかない。

お互いに寂しくなるな。

最後に。殺し屋に必要なのは、完璧なルーチンである。冷徹なルーチンを守ることで、彼は孤独の中で「無」になることができる。概して仕事とは、そういうものだ。「恋というノイズ」は邪魔でしかない。でも、、 人は恋をせずには生きていけない。ベッソン監督は、その「人間の弱さ」を描きたかったんだと思う。愚かさ、儚さ、かな。始めはボブのことをシブいと思っていたけど、エンドロールの頃には、断然マルコが格好よく思えた。男なら、こうあるべきと思う。