「亭主関白」って、死語なんですかね?

「今どき、亭主関白みたいな夫って、いるのかなぁ?」と、道を歩いていてふと思った。なんと言っても「時代という避けられない壁」がある。かの「昭和」という時代には、寺内貫太郎とか星一徹とか、そういうキャラクターが幅を利かせていた。というか、ある程度、許されていた。令和の時代にああいうキャラがいたとしたら、モラハラ、パワハラ、虐待、等々の罪名で、そっこく訴えられるだろう。

芸能界でいうと、2016年に高橋ジョージはモラハラで三船美佳に三行半を突きつけられた。結婚した時が高橋さん 40歳のときに、三船さん 16歳。その当時は自然だった「上下関係」が、三船さんが大人になるにつれて「うっとうしい」となったのだと愚考する。もちろん夫婦の真実なんて、当事者にしか分からんけど。亭主関白という「自覚のない虚勢」が、まさに許せなくなったか。

あとは、渡辺謙と南果歩。渡辺さんって、リーダーシップが取れて、女性にとっては頼もしい男だと思う。でも、、 現代は「カリスマが裸にされる時代」である。2017年に渡辺さんの不倫が週刊誌で報道され、南さんはうつ病となる。昭和という時代なら、ここまで「監視」されていないんじゃないか。渡辺さんを擁護するつもりはないけど、「時代の違い」はあると思うのね。亭主関白に隠れた「悪」を炙り出す、令和(平成)という時代。

ちょっと乱暴な言い方をすれば、昭和って「暴力が許された時代」だったのでは? 星一徹がちゃぶ台ひっくり返しても、飛雄馬と明子は泣きながら我慢する。強すぎるリーダーシップに歯向かうことは、許されないのだ。しかし令和(平成)は、強者の裏側をどんどん暴露していく時代だと言える。つまり「力の支配」が不可能になっているように思う。「巨人の星」は確かに名作だけど、令和の今に読んでみると、どこか「ダサい」のかもしれない。あるいは「古臭い」というか。昭和の持っていた右肩上がりの「熱さ」はうざく、一歩引いたクールさが格好いいというのが「令和」らしいのかも。

令和のダンナたちは、弱くなったのだろうか? あるいは女性が強くなった? いや、それは確かに強くなったのは事実だろう。どんなに強く見えるダンナも、ヨメはそのブサイクな部分をちゃんと把握している。「どうせこの人は・・」と軽蔑される時代なのだ。「俺についてこい」じゃなくて「一緒に行こう」というのが令和(平成)のロール・モデルなのかもしれない。イクメンとか家事分担など、令和のダンナたちは、弱くなったんじゃなくて「しなやかになった」のだと思いたい。

昭和のダンナは、偏屈でやせ我慢。怒りを外に発散させる代わりに、孤独だった。その不器用さを「格好いい」と評価する人もいるだろうけど、やっぱり令和のダンナの方が知性的と言えるかもしれない。そこで僕は「恐妻家のススメ」をドーンと呈示したい。ヨメに軽蔑されながらも、家族の中で自分の役割を、それこそ「しなやかに」こなすダンナ。リーダーシップ取るの、めんどくさいけど、やる時はやるで! みたいな。

最後に。「亭主関白」という言葉は、既にして死語である。あ、そうそう。キムタクは亭主関白なのかもね。でも昭和おやじみたいに偏屈じゃないと思うけど。「しなやかな亭主関白」 そんな器用なジャンルがあるとするならば、彼は「ネオ亭主関白」と言えるのかもしれない。僕は「恐妻家」たる夫として、小市民的に頑張ろうと思います。笑 以上「亭主関白って死語なんですかね?」と題して、文章こさえました。