あの頃、俺はどん底にいた。どうしてこの映像を見ることになったのか、よく覚えていない。でも、Charaの歌声とキーボードの音、そして湾岸の風景がないまぜになって、俺の脳みそをぶっ叩いた。すべてはこの映像と音楽から始まったのだ。
「スワロウテイル」(岩井俊二監督)を観た。2009年2月16日に主題歌のPVをネタにBlogを書いている。本編(映画)をまた観ると言いつつ、四年も経過してしまった。今回観て、改めて岩井監督のあらゆる面での「センスの良さ」に、痺れてしまった。エンドロールを呆然と眺めつつ「スゲー」としか、言葉が出てこなかった。本作の何が、そう感じさせたのか。難しいけど、文章化により、ちょっと切り込んでみたい。次のふたつの軸で語ってみる。
#1 結局何が言いたかったのか?
#2 アゲハの刺青のシーンについて
今回は#1について。まるちょうは思う、本作は論理ではないと。左脳的に観てしまうと、アレルギーが起こります。どうかご注意を。論理ではなく、できるだけ右脳にまかせて鑑賞すると、何かが残ります。その「何か」が、結局なんだろう?と考えるのは、左脳的な作業なんだけどね。ややこしいね。つまり、明確な起承転結があるわけではない。まず、独特の世界観がバックボーンとして描かれる。イェンタウン=円都、円盗という設定。このカオスをどう受け止めるかで、本作の評価は分かれると思う。「荒唐無稽じゃん、こんなの」と言ってしまうと、その人はそれから先へは入っていけない。とっつきやすいように、予告編を載っけておきます。
だから、突き詰めていくと「イェンタウンって何?」ということになる。一番根底には、人間の欲望(カネ、セックス、暴力)がある。多国籍の人々が、一攫千金を夢みて集まるイェンタウン。そこは、ハングリーでフーリッシュな混沌である。例の「壁と卵」の喩えでいえば、間違いなく卵です。不完全で弱く、何かしら傷を負っている。違法の匂いがするイノセンス。なんとか這い上がろうとして、ギラギラ目を光らせている。でも、届かない。堅牢でウソの上手な「壁」には、到底なれない・・
イェンタウンの「謎」を解き明かす、ひとつの重要な科白がある。たぶんこの科白は、岩井監督も相当に力点を置かれていたと思う。以下、ちょっと説明します。
紙幣偽造の疑いで、苛酷な尋問を受けるヒオ・フェイホン(三上博史)。ボスの名前を吐けと、殴る蹴るのすさまじい拷問。最後は「カネさえもらえば、吐くのか? 言えよ! イェンタウン!」という言葉とともに、偽札を口につっこまれて、壁に打ちつけられる。そうして血まみれになったフェイホンが絞り出す言葉(中国語)を、通訳の男性がキッとした目でこう訳す。
イェンタウンは、おまえたちの故郷の名前だろう!
つまり、岩井監督の頭の中には「戦後復興期の頃の日本」があると思うのね。そう、かつての雑然としてギラギラして、純粋に夢を追っていたあの頃。本作の冒頭とラストに映し出される、湾岸の工業地帯。あるいは都会の街並。そして注目すべきは、音楽のPVのイントロでも同様に描かれるモノクロの湾岸の工業地帯。
つまり、イェンタウンは「原風景としての」日本を暗示あるいは象徴しているんじゃないかと。拝金主義の跋扈した戦後社会。でも、経済は右肩上がりで、働く人々の顔は希望に満ちていた。貧しくて、汗だくで、単純で・・でも、みなの目はいきいきと輝いていた。そうしたイメージが「イェンタウン」には秘められていると思う。でも正確には・・というか、本作に「正確に」とか、あまり意味がないね。あらゆるものが、ダブル・ミーニングの魔法の粉をかけられているもんね。時空は歪み、多様性は踊り、論理くんは走り去る。
本作は、論理の積み重ねではない。ある程度のストーリー展開はあるが、荒唐無稽と言ってしまえばそれまで。映像のフラグメントの寄せ集めのように思える。でも、単なる寄せ集めに終わっていない。むしろ無数のフラグメントの総体としての「力」が、観る者の心に何かを残す。各々のフラグメントには何らかの「飛躍」が含まれていて、非常な異彩を放っている。だから、陳腐にならない。あっと言わせる切り口で、フラグメントが供されると、決して飽きることはない。ストーリー展開が明確でなくても、観る者は楽しめる。
では、結局何が言いたかったのか? おそらく岩井監督は「どうぞご自由に」とおっしゃるだろう。でも敢えて言うとすれば「拝金主義の敗北」なんじゃないかな。ラスト近くで不正に集めた紙幣をたき火で燃やすシーン。フェイホンの無残な死を前にして、イェンタウンのみなが抱く喪失感。フェイホン、いい奴だった。グリコ(Chara)ともいい仲だったのに。カネがすべてを切り裂き、運命を変えていった。フェイホンは一攫千金を単純に夢みただけなのに。それこそ「イノセント」に。でも結局、現代日本という「壁」に頭をぶつけ、とっつかまり、牢屋で死んだ。「カネじゃないんだよ」とは、辛うじて言っていると思う。っていうか「何が言いたかったのか?」という分析自体が、本作には相応しくないんだろうね。監督はおそらく「自由に感じ取ってくれ」とおっしゃるだろう。そういう性質の映画だと思う。