僕って本質的に「ノマド」なんです

みなさん、「ノマド」という言葉をご存知だろうか。

ノマドワーカーは、ノートパソコン、スマートフォン、タブレット端末などを使い、Wi-Fi環境のある喫茶店やコワーキングスペースなど、通常のオフィス以外のさまざまな場所で仕事をする人を指す日本語の表現。また、そのような働き方を「ノマドワーク」という。英語「遊牧民」を意味する「ノマド」と、「働く人」を意味する「ワーカー」を組み合せた言葉である。(Wikiより引用)

常日頃、栗東と円町を往復ばかりしている僕ですが、ちょっと考えてみたんです。僕の本質って、なんだろう?と。「仕事」というのは、ある意味「強制されたもの」であって、本当にクリエイティブなものではない。「生活の糧」と言い切っちゃうと、アレなんだけど、、 仕事をクリエイティブにこなす、というのはまた違う。おのれの純粋な霊感から生じたタネを、自分の中で培って、任意の形でアウトプットしていく。これぞ、クリエイティブなプロセスだと思うんですよ。

そうした場合、僕にとって重要な「場所」が喫茶店なんです。具体的にはコメダ珈琲店。そこで総合内科の勉強とか、Blogを書いたり。年の瀬となれば、年賀状の裏面を書いたり、来年の手帳のセットアップをしたり。逆に言うと、自宅ではそうしたタスクができない。やる気が起こらない。場所を変える(=ノマド)は、僕という怠け者にやる気をもたらせる、一種の「装置」なのかもしれない。

その「装置」とは、具体的にどのようなプロセスだろうか。僕はコメダ珈琲の栗東綣店を贔屓にしている。午前9時に自宅を出て、徒歩15分で到着。夏ならば汗びっしょりになる。でも、このちょっとした負荷が動的な効果をもたらす。自宅では淀んでいた身体と脳が動き出す。やはり、他のお客さんもいるし、程よい緊張感。席はだんぜんカウンターが良い。椅子が沈まないし、作業場所が広いので。「たっぷりアメリカン」を頼んで、作業開始。軽く低血糖なので、豆菓子を四粒ほど食べる。10時半くらいになると、かなり低血糖となる。そこで登場するのが「すみれホット」である。小倉あんをホットミルクで仕上げている。212kcalなり。これで低血糖は解消され、もう少し頭脳労働が継続できるようになる。11時半にはタスクを切り上げて、ずらかる。帰りは別ルートで自宅まで20分歩く。これがまた、健康的。

気をつけたいのは、長居はすでに「ノマドではない」こと。二時間くらいが望ましいと思う。その「場所」に飽きてしまうと、作業効率はだだ下がりとなる。こうした「移動」の中で、自宅で淀んでいた状態ではあり得ない「インスピレーション」が舞い降りる。この文章だって、勤務後に京都ポルタの小川珈琲で一息ついているところに、「ノマド」という言葉が舞い降りてきて、タネを撒かれたのだ。勤務後で疲れていたが、手帳にその「タネ」をいろいろ書き留めておいた(構想を練るのはアナログが良い)。下の写真がそれです。タネは大事に育ててやらねばならない。


思い返せば、学生の時から僕はノマドだった。大学合格のお祝いに母が買ってくれた上等の机は、医師国家試験の勉強では、ほとんど使われることはなかった。だいたい、京都市内の学習室とか、大学の談話室とか。移動しては勉強していたと思う。この延長線上に、例のネパール遭難がある。医師国家試験の三ヶ月前に行った、ネパールへの「移動」。今思うと、阿呆で無敵で危険な「移動」だった。僕はカトマンズからポカラへのローカルバス(約七時間の行程)の中で、現地ネパール人の好奇の目に晒されながら、小児科の問題を一心不乱に解いていた。あのとき遭難はしたけど、勉強はわりと進んだ記憶がある。

ノマドの要点とは、移動(身体的な刺激)、環境を変える、限定された時間(集中力↑)のみっつに集約される気がする。同じ場所で集中できる人もいるだろう。でも僕はやっぱり「移動しながら生産する」のが向いている。コメダでの雑音も、むしろ刺激になっている気がする。あの「ネパール人の好奇のまなざし」のように。今回、自分の生産のやり方が「ノマド」という言葉に集約されることに気づいた。小川珈琲の少しくせのあるブレンドに感謝である。