藤井聡太を想う

藤井聡太、18歳。おそらく近い将来、全冠制覇するだろう。将棋の歴史を塗り替える逸材。いっとき鬱々としていた将棋界を、一気にポジティブな方向に変えてみせた。こういう存在を「天才」と呼ばずしてなんとするか。しかし待て。「天才」って呼んでいる人は、いったい誰だろうか? まずメディア。そして大衆。彼らは手放しで「天才の登場」に酔っている。

藤井くんには悪いが、個人的には、天才とは「一種の病」だと思っている。通俗的な「『選民の恍惚』に浸る神の子が、天上から世界を見下ろす」というイメージは、それこそ凡庸な虚像である。本人は自分の才能が巻き起こす「運命の渦」に青色吐息なのだ。海堂尊的に表現すると「精神的な奇形」と呼べる。そこにあるアンバランスは、いつも目眩の原因なのだ。


例えば、モーツァルトをみよ。彼が天才であることに異論はなかろう。700以上もの楽曲を書いて、35歳で逝ったモーツァルト。彼は幸福だったのだろうか? 私は、その濃縮された人生の中に「ある種の地獄」を感じずにいられない。桁違いの才能によって、引きずられ、バラバラになり、後ろを振り返ることも許されなかった。気がついたら墓の中にいた、みたいな。例のサリエリは、そこそこの才能でこつこつと努力し、平穏な人生を75歳で終えた。幸福度でいえば、おそらくサリエリが優る。

そして「天才」には賞味期限があるという事実。つまり「天才が天才でなくなるとき」が、必ずやってくる。メディアや大衆は、天才の凋落にも敏感である。要するに、羨望のぎゃくの感情である。なんと、いやらしい。天才が天才でなくなったとき、彼は「戦慄するほどの孤独」を感じる。例えば、清原和博をみよ。そうした「心の隙間」に薬物が入ってきた。なんと恐ろしい。誰かが彼の孤独を分かってやれなかったのか。

藤井聡太二冠。これから大衆という「巨人」、そしてメディアという「幻影」と対峙していかねばならない。このあたりの立ち振る舞いは、師匠の杉本昌隆七段から厳しい指導があると思う。息長くトップ棋士を続けるためには、そうした魑魅魍魎の上手な処し方が必須と思う。「天才」ほど、一部の悪意をもった下衆な人々のおもちゃにされがちだから。

「元天才」加藤一二三は、生きかた上手。柔軟でないと、こうは生きれない。今やメディアを利用して発信をされている。「ひふみん」という愛称も、可愛らしい。まさにレジェンド。根底には、やはり「将棋への愛」がある。棋士だったら誰でもそうだと思うけど、ひふみんは特にピュアな愛だと思います。

「前天才」羽生善治は「永世七冠」という金字塔を打ち立てた。これは気の遠くなるような偉業であり、あえて言うならば「継続の神」。「継続できることが才能」という言葉があった。49歳となった現在、かつての終盤力はなくなった。でも粛々とタイトル100期を目指して頑張っておられる。尊い姿だと思う。

藤井聡太が、上記のような「天才」に迫れるか? それは彼の努力もさることながら、運もあろうし、そもそも「約束された将来」というのはあり得ないと思っている。でも彼の実力がいかんなく発揮され、痺れるような名手、火花散る名勝負、心おどる棋譜を残して欲しい。その一方で「奇形」からの脱皮、全人的な成長を祈る次第です。健やかな明日につながる一手を、これからも指し続けてください。わくわくと期待しております。(文中敬称略)