浮気より許せぬもの

私は「漫画でBlog」のコーナーでおなじみの通り、弘兼憲史と柴門ふみのファンである。言うまでもなくお二人はご夫婦で、二人の子供はすでに独立。弘兼さん68歳、柴門さん59歳。そして言うまでもなく、お二人とも仕事では大成功をおさめ、ホクホクのはず・・ しかし、昨年六月の婦人公論に掲載された柴門さんのインタビューで、夫婦の内実が暴露された。「浮気よりも許せなかったのは家族への無関心だった」というタイトルである。

実はこの記事(広告?)の切れはしを妻から渡されて、当時ちょっと思案したことがあった。というのは私も「家族への無関心」という傾向があるから。私という人間は、視野を広く取ろうとしない。ある一点を深く追求しようとするクセがある。いったんそのモードになると、他のことが見えなくなる。買い物をするときも、必要なものしか買わない。ぶらりと商品を眺めながら、楽しむという行為を得意としない。自分のことに集中しているときは、家族のことを忘れてしまう。あるいは惰性的に、家族のことを忘れてしまう。というか、気にしていたとしても、それが家族の「本当のニーズ」に叶っていない。むしろ迷惑だったりする。そうして「あなたは家族のことを本当には想っていない」とため息をつかれる。これはわが家の定番のコースである。


件の弘兼さんの実態はどうだったのか?

「今もそうですが、夫が仕事を休むのはお正月の3日間だけ。残りの362日は休みなしで働き、家族と過ごす時間はほぼありません」幼い長女と長男と直接話をしたことはほとんどなく、ドライブもたったの1度。「それでいてゴルフには行くし、夜の銀座にも足しげく通って」いたという。



ワーカホリックの実用主義者&エゴイスト。子供嫌い。度重なる浮気。でも「何があっても離婚だけは絶対しない」という態度。憲法改正、原発推進論者で、政治的にはかなりのタカ派。「育児に熱心な男は出世しない」「イクメン部下は仕事から外す」「子供の行事よりも仕事を優先させよ」などの発言で物議を醸したこともある。

これが本当だとすると、まさに「女の敵」みたいなことになるか。でも基本、女にはモテるタイプだろう。「ノルウェイの森」でいうと、永沢さんみたいなタイプかもしれない。どんどん毒を喰らいこんで、人生を切り開いていくタイプ。おそらく他人には厳しいと思う。ただひとつ不思議なのは「それならなぜ柴門さんと結婚したの?」ということ。

私は弘兼さんほど「ブラック(笑)」ではない。決定的なのは、浮気をしていないこと。銀座のクラブなんか行ったことないし、女遊びということはしません。できません。ただ~、まるちょうという人間は、どこか弘兼さんの路線を踏襲しているようにも思える。それが証拠に、よく妻と口論になると「どうして私と結婚したの?」という問いに帰趨することが多い。それだけ家族に無関心でいられるなら、家庭なんて必要ないじゃん?ということね。

そんなとき「いやいやいや~」と私は反論する。「オレはあなたを愛していたから結婚したし、その気持ちは今も変わらない」と言うのだが、認めてもらえない。「じゃあ、愛ってなによ?」とこうくるわけだ。私の無関心は現実なのだし、悪いのは私である。その流れでうつになり、寝込む。起きたころには、その論争はすでに過去のものになっている。夫婦の諍いとは、このような水物である。まったく犬も食わない。



「私は夫の本性を見抜くことができないまま結婚し、やがて『こんなはずではなかった』という苛立ちを覚えるようになったのです」

綾小路きみまろじゃないけど「あれから40年」というフレーズ。このご夫婦は結婚生活36年目である。夫がマイペースだと、どうしても苛立ちは妻が背負うはめになるかもしれない。これって逆にそうじゃない夫婦ってあるのかよ?と言いたいね。夫婦の立ち位置、距離感などは、年月とともに変わる。それと共に、どちらかに「宿命的な苛立ち」は出てくるだろう。こんなの夫婦じゃなくても、どんな人間関係にも言えることだ。

最後に柴門さんは、こう語る。

「夫に悪気はない。だから私が何かに傷つき、苛立っているのかわからないのだ、と思いましたね」

妥協点、きたね。夫婦の諍いを収めるのは、精緻な論理でもなく、厳かな力でもなく、今そこにある「妥協」なんですね。しかしそこで気づくべきなのは、問題になっている「夫婦間の構造」は、一寸も変わっていないということ。こうして世界中で、来る日も来る日も夫婦の諍いが繰り返されるのである。まるで終わりのないモグラ叩きだ。でもね、結局それが結婚生活の十字架だと思うしね。さあ、しかと背負って参りましょう(笑)。以上「浮気より許せぬもの」というお題で語ってみました。