漫画でBlogのコーナー! お気に入りの短編漫画をネタに、また語ってみたい。「人間交差点/矢島正雄作 弘兼憲史画」より「弟」という作品を取りあげてみる。個人的には「人間の器」について、描いてあると思っている。まずは、あらすじから。
次郎は頭が悪くて下品だ。もっぱら土木作業で汗を流すが、生活は苦しい。四人兄弟の次男だが、両親は裕福であり、他の三人の兄弟は頭がよくて品行方正である。つまり、次郎だけ蚊帳の外とういうわけ。末っ子の薫は、弁護士を目指して司法試験の勉強をしている。その優秀なはずの薫が、喫茶店のウエイトレスを妊娠させて、出産という場面。赤ん坊は助かったが、母体は喪われた。
そうして、家族会議となる。両親と頭のよい三人の兄弟は、赤ん坊を施設に預けることで協調する。しかし次郎は「可哀相だよ、育ててやろうよ。みんなで育ててやろうよ」と言い張る。みな次郎のことを軽蔑し、無視していたが、次郎は、なかば強引にその赤ん坊を自分の弟として戸籍に入れてしまった。
それ以来、次郎はその赤ん坊を実の息子のように育ててきた。数年後、薫は在学中に司法試験に合格する。すべてが順調に進んでいるいるように思われたが・・ 幸夫(かつての赤ん坊)が病魔に冒され、手術を控えているという。薫はそれに付き添った。
頑張れよ、と励ます次郎に、幸夫は小さい手をさしのべる。当然、薫のほうは特に見ようともしない。「おまえはいい子だ、将来は絶対、お父さん(薫)みたいに、偉くなれるんだ。いいな、頑張るんだぞ」幸夫は涙を流して次郎の手をにぎる。すまなかった・・と心のなかで悔いる薫。
10時間を越える大手術の果てに、幸夫の容態は悪くなっていく。「頑張れ!幸夫、頑張ってくれ、死なないでくれ!」と涙ながらに声をしぼり出す薫。そこで次郎はこう訴える「薫、許してやってくれ! もうこれ以上、幸夫を頑張らせないでくれ! 頼む、もう頑張らなくていいよって・・ひと言声をかけてやってくれ!」と。そうして、幼い幸夫は静かに息をひきとった。
15年後、薫は弁護士で、まだ独身でいる。次郎は土木仕事をクビになり、薫に金を借りてなんとか生活する日々。薫は亡くなった幸夫のことを、ずっと想っている。何もしてやれなかった、駄目な父親だったと、自分を責めている。みなから軽蔑される次郎だが、薫は次郎の真価を認めずにはいられない。「俺たちの『弟』のためにも、結婚して幸福になってくれ」と次郎は実直に言う。「馬鹿な兄貴だけど、一度くらい言うこと聞いても悪くないぞ、クックックッ」 薫は応える「わかった、俺、兄貴、尊敬しているから真剣に考えてみるよ!」と。
うすのろの次郎にあって、他の優秀な三兄弟にないものが、みっつある。まず「正直さ」。次郎は薫の不祥事でこの世に生を受けた赤ちゃんを、可哀相だと思った。他の三人も「可哀相」とは思ったに違いないが、結局のところ冷たいのだ。優秀な人にありがちな、冷酷さ、無関心。この人たちにあるのは、たいてい損得勘定である。頭の切れる人は、そうした計算を瞬時にやってのける。そうして、得にならないことには決して手を染めない。次郎は「赤ちゃんが可哀相」という素朴な感情を決してごまかさない。他の三人は「馬鹿みたい」と軽蔑するけど、次郎はまったく構わない。なんの計算もなく「阿呆のような正直さ」だけがそこにある。
つぎに「寛容さ」かな。不憫な出自の赤ん坊を、三兄弟は受け容れられなかった。できれば「ないもの」として取り扱いたかった。それは実の父である薫でさえ、そうである。薫は家族会議で「施設に預けるしか仕方ない」と思っていた。根底には「この赤ちゃんは自分の人生にとって邪魔」という冷たい想いがあったに違いない。むろん、良心の呵責はあったろうが。そんな中、次郎は赤ん坊を自分の弟として戸籍に入れてしまう。なんという阿呆なコミット。なんの得もない、熱いコミット。無私からくる「熱さ」を、我々は「寛容」と言うのだ。
さいごに「無欲」。あるいは「プライドの低さ」と言ってもいい。赤ん坊が可哀相で育てはじめるけど、彼は特に報酬を欲しいと思っていない。赤ちゃんがニコニコと育ってくれるだけで満足なのだ。自己犠牲のようにみえるが、そうでもない。赤ちゃんに自分を捧げることが、この男は心底うれしいのだ。そうして他の三兄弟に馬鹿にされても、ビクともしない。あるいは「馬鹿にされている」ことにすら、気づいていないかもしれない。「脳の報酬系」が、ちょっとずれた人なんだと思う。
次郎のもつ「みっつの性質」は、これまさに「人格の美」を表している。ふと「白痴/ドストエフスキー作」の主人公、ムイシュキン公爵を連想してしまった。真・善・美とは、なんて弱いんだろう。真・善・美は、いつも負ける宿命を持っている。それが世知辛い現実というものだ。ただひとつ、次郎が「強者たりえた」場面がある。幸夫の手術のシーンである。ここで次郎は、まったく幸夫の父として振る舞い、実の父である薫を寄せつけなかった。おそらく薫は「次郎兄さんには到底かなわない」と悟っただろう。「人格の美」の奥底に棲む、何者にも侵されない尊い力。それは「神聖」とさえ言いうる。
矢島正雄もドストエフスキーも、いちばん何が言いたかったか。それはリアルな人間社会において、本当に「真・善・美」を兼ね備えた人がいたとしたら、それは相当に変人扱いされるということだ。彼の「空気の読めなさ」は、いつだって世間人のしゃくに障る。そうして彼は、宿命的に世間人から浮いてしまい、疎外される。場合によっては迫害さえ受ける。逆にいうと、それだけリアルな人間社会が穢れているということだ。本作での唯一の救いは、世間人である薫が、変人である次郎の真価をちゃんと認知していること。ラストの「兄貴、尊敬しているから」という言葉が、とても清々しいと思う。以上、漫画でBlogのコーナーでした。