「言葉からインスパイア」のコーナー! 先日「父は息子とどう向き合うか/鷲田小彌太 著」という本を読んだ。今となっては、なんでこの本を読もうと思ったのかも定かでない。たぶんAmazonを眺めていて、本書の次のような内容紹介に心が動いたからだろうか。
自立した男に育つか、パラサイトになるか、カギは父親の姿勢にある。
これ、父親としては「そそられるフレーズ」じゃないですか。つまり父親は「悪役=反面教師」を演じるべし、と指導するわけね。父親が子供に対して「悪を演じる」意味って、なんだろう?と思ったのです。今回はちょっとその辺を掘り下げて、考えてみたい。
ここでいう「悪」とは、いわゆる「ちょい悪」のことです。さすがに父親が「本当の悪魔」だったら、息子の将来は暗いだろう。鷲田先生は、笑い話で納められる程度の「悪」と書いておられる。つまり、その人の性癖(Second Nature) ☞ 容易に取り除くことのできない「人生のシミ」ということね。これは「悪」でもあり、同時にその人の「魅力」ともなりうる。例えば、父が自分の悪癖で「やらかしてしまった」後に、自分を責めている様子などは、息子にいい影響を与えるかもしれない。
子供にとっては、善人としての大人よりも、ちょっと悪めの大人の方が「魅力がある」ように思う。なぜなら、子供って「偽善」には敏感だから。彼らには、立派な大人の「ウソ」を見抜く本能があると、鷲田先生はおっしゃる。だから悪ぶっている大人の方が、子供には安心感があるんだね。「偽悪」も結局はウソなんだけど、子供は「この人、ホントはいい人に違いない」と感じちゃうのかな。子供が本来的に持つ劣等感と、どこか通じるのかもしれない。これはあくまでも、個人的な推測ですが・・
では、まるちょうの「悪」とは何だろうか? ずばり「怠惰」なんですね、これが。ホント自堕落でみっともない。職場の人がこれ聞いたら、ちょっと不思議かもしれない。仕事はかなり几帳面なほどにきちっとやるしね。ホント僕って、帰ったらだらしないんです(笑)。具体的には言いませんが、嫁もたまに顔をしかめるほどです。あ、ひとつだけ書いておきます。わかんないだろうし。帰宅すると、まずパンツ一丁になって、ひとしきり唸ります。そして、奇声をあげながら開脚します。あまり意味はありません。たまに、ハミ金(笑)を妻に指摘されます。何でそうするって? そりゃ、仕事が終わって嬉しいからですよ!ヽ(゚∀゚)ノ ワー
でも最近、こうした一連の「悪癖」を止めるように、息子から注文がありました。やはり父親として、もっとちゃんとしてほしい、最低限の威厳とか建前とか、持ってほしいということらしい。私は反省しました。どこかで家族に甘えていたんだな、と思いました。やはり家だからといって「全くの素」になってはいけないんですね。ある程度「演じる」必要がある。「仕事が終わって、キャホー!」という内心は隠して、静々と衣服を脱いで片付けて、男は仕事の愚痴は家ではこぼさない(河島英五みたいw)。ま、親しき仲にも礼儀あり、という奴ですな。
私は、嫌になるほど天然な人間です。だから「演じる」ことに慣れていない。息子と約10年過ごしてきて、彼はすでに「ああなりたくない」というイメージを持っているわけです。反面教師たる役割は、もう終わったのだ。だから今は、自分の「天然さ」をうかつに出してしまわないよう、常識のある父親像を演じております。清潔感というか、節度というか。47歳という年齢は、やっぱ、クレイジーを許されないトシなんでしょうね。もうすぐ50歳だもんね。全然、自覚ないわ・・ ヽ(゚∀゚)ノ ワー
鷲田先生曰く「悪役を演じるためには剛く(つよく)なくてはならない。同時に優しくなければならない」と。レイモンド・チャンドラーの有名な言葉ですね。つまり、父親業とはハードボイルドなんですわ。「親の轍は踏むな」という気配を伝えることができれば、父親としては幸いだということ。父が自分の「不足」について自己分析して、それを息子にわかるように率直に提示することが、まさに「反面教師」なんだと思う。40代(人生の中間地点)で、そうした「己の不足、弱点」について整理しておくことは、これまさに自分のためでもある。まるちょうには「剛さ」が足らないと思う。生まれもった「甘さ、優しさ」は胸にしまって、ハンフリー・ボガードのような「苦み、冷淡」を演じようと思います。「ボギー!俺も男だ」のウディ・アレンのようになっちゃいそうですが・・f(^^;) 以上「言葉からインスパイア」のコーナーでした。