20日に近所の大宝神社で厄祓いをしてもらった。まるちょうは、数え年て42歳、本厄なのである。私自身それほど信心深い方ではない。だから当初は厄祓いなんか全然頭になかった。しかし、昨年末の実家の忘年会で、45歳の実兄から「悪いことは言わんから、厄祓いだけはしておけ!」と執拗に薦められた。初めはそれほど乗り気でもなかったけど、それ以来心のどこかに引っかかっていた。そして元旦。お蝶夫人♪と一緒に初詣したところ、今年が数えで本厄にあたることが判明。「前厄とか後厄はともかく、本厄はちゃんとしておかないと!」となったわけ。
当日は、神社より特に正装でなくてよいとのことだったので、普段着で。受付すると、薄暗くて底冷えする部屋へ通される。待合室みたいだ。所在なげに待っていると、子供連れの家族が入ってきた。幼稚園児くらいだろうか、子供二人はなんだか得体の知れない非日常の雰囲気に怯えている。確かに小さな子供には、この雰囲気は馴染まないだろう。
そうこうしているうちに、神主さんからお呼びかかかり、お祓いの部屋へ通された。とにかく廊下が薄暗くて、いかにも神社という感じ。神主さんは、穏やかな感じの少し太めの紳士だった。こう言っては少し失礼だが、やや現世的な雰囲気も醸し出されていた気がする(笑)。まぁ、本当に「神様に取り憑かれたような」神主さんだったら、むしろ引いてしまうだろう。
とても穏健な雰囲気で厄祓いは執り行われた。その間、約5分くらいか。とてもあっけないひとときだった。お祓いの文言の中で、私の住所氏名などの情報が読み上げられるのだが、あれはもちろん、受付時の私の記載に基づいているわけだ。私の汚い字をよく間違いなく解読できたな、と感心した。最後に、様々の厄祓いグッズをいただいて終了。そそくさとお祓いの部屋を退室した。
さて、結局厄祓いとは何なのか? そのことについて答えている文書を大宝神社からいただいたので、大事なところを抜粋してみる。
吉凶禍福は、表裏をなすものです。心の油断から禍は、常に起こるものであり、心の持ち方次第で「災い」を福に転ずることもできるものです。不測不慮の災難を除くために、また油断のない生活をするために、神様にお詣りをして、そのご加護を願うのが、この厄祓いであります。(中略)人間の一生で竹のフシ、これが厄年だと思います。厄年は人間のいのちを支える力の根源です。人間の運命を支えるいのちのフシに当たる年を固めるために行うのが、厄祓いなのです。
なかなかに味わい深い考え方だと思う。手を抜かず、油断せず生活して、変化に備えよう。こうした「変節」こそ、いのちを支える力の根源なのだ。厄祓い、行ってよかったと今では思っています(笑)。
厄払い、やって正解ですよ。
私の知り合いは、その年に災いが起きた人が結構いました。
私もよくないことが起きました。
後から、厄払いしておけばよかったと後悔しました。
気分的にも、厄に備えたことで余裕が出来ますしね。
コメント、ありがとうございます!
やっぱ、正解でしょうか。
人生の節目なんですかね。
兄から強く言われて結局したけど、
こうこうことって、意外と大切なんでしょうね。
去年のドタバタにも相当こりたし(笑)。