人の死とは、哀しいものだろうか。あるいは、恐ろしいものだろうか。哲学者 三木清 の言葉を思い出す。
私はどんなに苦しんでいる病人にも死の瞬間には平和が来ることを目撃した。
50代半ばになり、人の死がいかに多面的であるかを考えずにはいられない。まずは、あらすじから。

今や、粗大ゴミや子犬が捨てられる林。キヨは、この土地を残しておく意味もなくなったのか

涙を流した死顔に勝男が気づく。「あれ・・死んでる」 エミ子も「ほんとだ、死んでる・・」なんの感慨もない二人。重夫は勝男に「電話帳もってこい」と伝える。「最寄りの葬儀屋に電話して、すぐ手配するんだ」 タバコの煙を美味しそうに吐いて「さて・・と、少し忙しくなるぞ」と。

ちょっと話が異なるが、僕の祖母の葬式について。祖母は92歳で他界した。辛抱強い、可愛らしいおばあさんだったが、最晩年は認知症もすすみ、「生きる辛さ」のようなものが顔貌に見てとれた。もちろん介護する叔母も大変だっただろう。簡素な葬式だった。そこですごく印象に残っているのが、僧侶の言葉。「92歳という御年で逝かれたのは、悲しむ必要はありません。むしろめでたいことです。笑顔で送ってあげる方が、故人もきっと喜ばれます」

もちろん普遍性はないと思うけど、人の死がある意味「生の起点」となる場合があるということ。残された家族は、これを節目として、自分の人生を再開する。また、この世を去る者は、穢れたこの世から、解放される。悲しみや老い、苦しみから解放されて「平和」が訪れる。冒頭の三木清の言葉である。
想像していたほど不幸でもなかったし、
想像していたよりも幸せではなかった私の人生を・・
この林と一緒に消しておくれ・・

重夫と勝男とエミ子は、穢れている。何度もいいますが、生きることはすべからく「穢れ」なんです。最後に「忙しくなるぞ」とキメる重夫、これぞ「生」なのです。僕には彼を批判する資格はないですが、キヨの「林に対する感傷」は分かる人間でありたいと思います。以上、漫画でBlogのコーナーでした。