またまた糸井重里の言葉からインスパイアされて

ほぼ日手帳7月28日(金)、糸井さんの言葉を引用します。

「じぶんで決めていいこと」がいっぱいあるのに、
「みんなはなにを選んでいるのか?」とか、
「世間で正しいと言われているのはどれか?」だとか、
「正しくなかったら困る」だとかうじうじ考えているうちに、
「じぶんで決めていいこと」がすり抜けて減っていく。

これって、日本人にはありがちな指摘かも。知らず知らず、同調を求められる、あるいは自分が求められているという錯覚に陥るということ。「大人」という概念において、なにが妥当なのか、ふと不安になってしまう。ひとことで言うと「常識があるかどうか」を試されるということ。同調が失敗したときの罰は、ずばり「恥辱」です。

たぶん欧米の方は、その場面で開き直れる。「これが俺だから、しゃーないやん!」みたいな。つまり「自分は自分」という思考ベースが出来上がっている。「個性」とか「自分らしさ」ということ。日本人は、どこか人まかせなのかもしれない。「ある決定」について、じぶん独自の責任とか覚悟が足らない。十字架を背負えない。

女子は特に「逸脱」を嫌うかな。「世間における正しさ」を追いかけるあまり、大切な時間が無為に過ぎ去っていくことを、糸井さんは心配されている。女子がみなそうだとは言わないけど、「うじうじ考えてしまう」女子は確かにいると思う。「群れやすい」女子かな。ひとり焼肉とか吉牛にすっと入れる女子は、おそらく「うじうじ」考えない。まあ、どれくらいのパーセンテージで、そんな独立系女子がいるのかは知らないが。

でも確かに「じぶんで決めていいこと」を、どんどん決めていけるとしたら・・ その人は「依存という殻」を破ろうとしている。それは人間として、大いなる成長である。奥ゆかしさとか、控えめであることとか、一歩下がることとか。これらは、周囲の人にとっては「印象のよい」性質である。でもこの人は、いつまでたっても「自我」が育たない。つまり「自分を殺して」生きている人だから。辛抱や忍耐は得意だとしても、これは社会において「自分を表現する」のには、とても不利である。

僕の話になりますが、20年前に結婚して一番よかったのが、実家から離れて「一家の長」として振る舞うようになったこと。僕って、元来がめんどくさがりなんですよ。特に、リーダーシップとか、苦手。でも、結婚してからは「一家の長」として動かないと、我が家が動かない。もちろん「じぶんで決めること」が、飛躍的に増えた。そうして、ようやく自我が形成されていった。僕、反抗期がなかったんです。どこか「親に一歩下がる」みたいな心的構造があったかもしれない。だから、36歳に結婚しましたが、それ以後の20年の方が、はるかに人間的成長はあると思っている。

じぶんで決めていいことは、どんどん決めていきたいですね。それもスピード感があった方が気持ちよい。同調を求められる日本で、常識を求められる大人として。それでも「社会の中の個人」として、そうした「決定権の行使」をためらってはいけない。やはり人生というのは、自我が育ってなんぼだと思う。しっかりとした自我があってこそ、人生は面白い。一歩下がる人生ではなく、自分でどんどん決めていける人生こそが、尊いと思う。もちろん「個人としての責任」を十字架として背負えることが条件ですが。それこそが「大人」という概念だと思います。以上、言葉からインスパイアされて文章こさえました。