曰く「一粒の麦が死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」

ドストエフスキーの著書「カラマーゾフの兄弟」の扉に、とても意味深な言葉が記してある。

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネによる福音書、12章24節)



これはもちろん、聖書からの引用です。ずばりイエスの言葉ですね。ドスト氏は熱心なキリスト信仰者だった。この言葉、さらっと読んだだけでは、まるきり分からない。一種の逆説であり、矛盾がある。でも「深いもの」は、大抵そういうものです。たまにはこうした「words of wisdom」について、想いをめぐらすのも悪くないでしょう。今回は人に読ませるというよりは、備忘録的な感じで書いてみます。


まず、普通に思い浮かぶのは「パン」のことです。麦が麦のままであれば、ただそれだけのこと。しかし、麦が粉にされて水を混ぜ焼かれることによって、我々が食べられる「パン」になるのです。麦が「死んで」パンに生まれ変わったために、我々の命は長らえることができた。役に立ったわけです。

宗教的には「麦の死」は、イエスが十字架にはりつけにされて死ぬことだそうです。その尊い「死」により、人類が救われるということ。しかし、ここではそういう宗教的な見方はやめましょう。俺、クリスチャンじゃないし。もっと他の連想がないだろうか?

例えば一般的に、スキルというのは一連の流れを「意識している」うちは、凡庸なレベルと言わざるを得ない。しかし「意識の死=無意識」のうちに一連の作業ができたとしたら、それは「達人レベル」なのではないでしょうか。夢中になる、あるいは無心になるときに、初めて面白いものが出来上がる、そんな事ってないだろうか? 自我が消し飛んだときにこそ、本当のおのれが表現できるみたいな。

具体例を挙げます。ジャズ・ピアニストのキース・ジャレットは、精神的、肉体的にボロボロのときにこそ、歴史に残る名演が可能だったと話している。背中にひどい痛みがあって、10分もピアノを弾けそうにない、そんなときにブレーメンで45分+18分にわたる名演奏を残した。あとで録音テープを聴かされて「これがあのブレーメンの演奏?」と本人が驚いたのだ。いちおう音楽を載っけておきます。関心のある方はどうぞ。



つまり「自我の死」が起こったとき、本当の意味で創造的になれる、ということだろうか。逆に言うと、自我(浅い意識)は、人間の行動をミスリードしやすいのかもしれない。

じゃあじゃあ、「自我を消す」いい方法って、あるの~? 安心して下さい、よい方法があります。それは「瞑想」です。瞑想の状態になると、じゃまな自我は消え去ります。自我が作り出した様々のガラクタ(怒り、嫉妬、劣等感、欲、計算、怖れ、など)は薄らいでいき、余計な疲れやストレスが軽減、整理されます。そうして今まさに自分に立ちはだかっている様々の問題に対して「よし、やってやろう」という態勢に入れます。まさに「麦が死んで、豊かな実を結んだ」という瞬間であります。

俺はクリスチャンじゃないと言いつつ、すごく胡散臭い宗教家みたいな話になってしまい、恐縮です。でも上記の話は、僕にかぎって言えば、本当の話ですよ。二年前の背中の肉腫のときも、瞑想して余計な焦りや恐怖を遠ざけた記憶があります。あの時は、瞑想してすごく客観的に、あるいは冷静になれたですね。いわゆるメタ認知というやつかな。話がちょっとそれました。最後に三木清という哲学者(クリスチャンです)の言葉で締めくくりたいと思います。またいつか「麦の死」について考えるときがあるかな? 笑

求めるということは、あるがままの自己に執しつつ他の何物かをそれに付け加えることではない。ひとは自己を滅することによって却って自己を獲得する。