最愛のものを喪った後に見えてくるものとは?

「光/河瀬直美監督」を観た。昨年5月にカンヌで話題になった作品です。まず最初に驚かされるのは、100分という尺にしっかりと「芸術」を収めていること。おそらく河瀬監督は、膨大なフィルムの削除を行ったはず。心血を注いだフィルムを、苦しみながら迷いながら「捨てる」ということ。なんという潔さだろう。今風に言えば「男前」ということになるか。簡潔さは「行間を読む」という醍醐味をうみだす。カットとカットの間の連想、違和感、あるいは一致。そうした緊密なトーンで、話は進行します。まず概要をつかむため、予告編をのっけておきます。



視力を失いつつあるカメラマン、雅哉(永瀬正敏)。カメラマンが盲目になるという悲劇。これは全く絶望だ。彼はその「無慈悲」と格闘している。いらだち、悲しみ、苦しみ、そして涙する。一方、視覚障がい者向けの「映画の音声ガイド」をしている美佐子(水崎綾女)。彼女はよい意味でもわるい意味でも若い。第一に「喪う」ということの痛みを、把握できていない。彼女は「喪う」には若すぎるのだ。でも雅哉と関わっていくことで、「喪う」ことの深さを学んでいく。一番シンボリックなのはやはり、雅哉が夕陽に向かってカメラを棄てるシーンだろうか。「これは俺の心臓なんだ」と言わしめた、そのカメラを棄てる。ここ、心が痛い。その痛みが美佐子にも伝わり、二人は接吻する。”Pity is akin to love.” ちょっと不器用なキス。その二人の間から、夕陽が差し込む。

上記の恋模様はメインストーリーなんだけど、本作はもうひとつ重要な要素を含んでいる。「その砂の行方」という劇中映画。これは16分の短編で「光」と同じチームにより制作された。愛する妻(神野美鈴)が重度の認知症を患い、にっちもさっちも行かなくなった老夫婦。旦那の重三(藤竜也)は、あまりにも哀れになったんだろう、自分の手で妻を安楽にしてやる。彼はもちろん、罪悪感と孤独、そして絶望の中でもがくが、砂浜を小幅に歩いていくうちに、淡い夕陽が目に差し込んでくる。その双眸で光を受け止めて、じっとたたずむ。

美佐子は「その砂の行方」の音声ガイドを担当していた。雅哉と意見が衝突して、険悪な雰囲気になったりする。ラスト、重三が砂浜で光をあびて、じっとたたずむシーン。美佐子は初め「その表情は生きる希望に満ちている」とガイドをつけた。しかし北林監督(藤竜也、二役)は難色を示す。ここは美佐子の「悪い意味の若さ」が露呈した部分。苦しみ迷いながら、最終的に「重三の見つめる先、そこに光」とする。これはそのまま、本作のラストでもある。そうして最後に「光」という文字が、暗闇から浮かび上がる(題字は河瀬監督、ナレーションは樹木希林)。



最愛のもの(カメラ、妻)を喪った後、何が見えてくるのか? 北林監督の言ったように、決して「希望」ではない。本作が示唆するのは、もっと厳しくて残酷で哀しいものだ。当人が苦悶、苦闘して「もうダメだ」と思った先に、ようやく見えてくるもの。それが「光」だと言いたいのです。こいつ、人知の及ぶところではない。その人次第で、天国にも地獄にもなり得る。信じる人は救われるという、まさに神の領域。でも、それこそが運命じゃないですか。人は「光」を求めずにはいられない。光が我々を照らすかぎり、道はつづくのだから。以上、「光」について文章こしらえてみました。