将棋から人生を考えてみる

「人間における勝負の研究/米長邦雄著」を読んだ。米長邦雄という人物について少し。今は亡き将棋棋士で、いろんな意味で将棋の歴史に足跡を刻んだ人です。遺された棋譜は、今なお将棋ファンを魅了してやまない。本書は「シリコンバレーから将棋を観る/梅田望夫著」の中で、紹介されている。梅田さんが若い頃「人生のバイブル」として大いに助けられたと書いてある。2012年(69歳)に前立腺癌で逝かれた米長さん、その将棋も生き方も「非凡」なものだった。悪い言い方をすると「変人」ということになるかもしれない。でも人類の歴史は、いつも「変人」が動かしてきたわけでね。今回は、この米長さんの言葉を引用して、ちょっと文章を書いてみます。

将棋で最善手を見つけることは、本当に大変なことです。しかし、最善手を見つけることも大切ですが、それよりももっと大切なのが悪手を指さないことです。だから、悪手でない道なら、端でも真ん中でも、どこを歩いてもよいのです。(中略)ところが、悪手を指すのは簡単です。(中略)人間が欲望どおりに行動していれば、たいてい悪手になります。また、普通に気をつけて歩いていても、車にはねられる危険はいくらでもある。要するに、悪手の山の中を歩いているようなものが ”人生” なのです。



この一節は、とても深い。「人生は悪手だらけの山」という表現に、思わずうなずいてしまう。私は20代で、大悪手を指した。そうして20年近く苦しんだわけだが・・ でもね、一番だいじなのは「悪手を続けないこと」なんだな。これ、本書でも触れられている。どんな人だって人生の中で「悪手」は指してしまう。そりゃ人間だもの。でも、そのあと冷静になって自分を見つめ直し、影響を最小限に食い止める手はなにか、必死に考えて行動する。つまり、辛抱するわけです。そうすると、いつか好機が訪れる。それをうまくとらえて、いい波に乗る。これ、人生も将棋もまったく同じなんです。悪手を指して、必要以上に動揺してさらに悪手を指してしまう人は、どうしたって勝てない。まるちょうは思うのね。悪手を指した時に一番必要なのは、いったん盤から離れて、顔でも洗って、一息つくことだ。そうして盤面をずっと上から眺めてみる。これ、いわゆる「メタ認知」ですね。当事者としての感覚から、いったん退避してみる。これ、個人的には重要だと思っています。

人間にとって大切なものは、努力とか根性とか教養とか、いろいろあります。しかし、一番大切なものはカンだ、と私は思っています。カンというのは、努力、知識、体験といった貴重なもののエキスだからです。その人の持っているすべてをしぼったエキスです。ミキサーをガーッと回してしぼっているようなものですが、そのスピードがあまりにも速いので自分でも気がつかない。新手、新発明、新発見、いずれをとっても総合力を基にしたカン、閃きなのです。



これも、大いに賛成。カンって、大事だと思います。米長さんのいう「カン」は、でたらめなカンのことではない。ちゃんと「努力、知識、体験といった貴重なもののエキス」と記してある。修練の結果として身についた「直観というスキル」のことなんだな。私は総合内科に携わっているが、初診の患者さんを診るとき、いちばん最初に作動するのは「カン」なんですね。米長さんがおっしゃる通り、この「カン」は、ぜんぜん論理じゃない。まさに無意識という精神の奥の方から発するシグナルなんですね。こいつ、ぜんぜん言語というものを持たない。診療の場では、なんていうんだろう、一種の「違和感」として残ることが多いかな。あれ、ヘンだな?という違和感から、言語的、計算的な思考へとバトンタッチされる。こうした「起点としてのカン」がイマイチな総合内科医は、まさに画竜点睛を欠くということになります。

それと、どこかで読んだんですけど、努力、知識、体験を「この道一筋」で極めてきた達人の「カン」というのは、相当に正確なんだそうです。無意識から発せられる論理でもなく、言語化も難しい「カン」が、精密であるという不思議。でも、この「カン」は、鍛え抜かれた戦士にしか備わらないんだと思います。現場で戦い続けること。現場で悩み、苦しみ、迷い・・そうした「ギリギリの場数」が、カンを培うんだと思います。総合内科という戦場で、これからも「カン」を磨いていこうと思ったのでした。以上、米長さんの本をネタに、Blog書いてみました。