ルノワールを描いてみた

イレーヌ嬢3大人の塗り絵、第二弾行きます。今回はルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」をチョイス。次はルノワールと決めていたんだけど、やはりこの絵はダントツ人気でしょう。イレーヌ嬢の「乙女としての繊細だけど芯の強い感じ」が、よく表現されている。少女の面影を残しつつ、大人への背伸びも見え隠れする「危うい年頃」というかな。ルノワール先生は、そのへんの微妙な感じを、きわめて巧妙に描いておられる。ポートレートというのは、モデルがその絵をみて満足かどうか、という問題がある。たぶんイレーヌ嬢は、満足したんじゃないかな。それほど、この絵画は完成度が高いと思います。自分で描いてみて、なんとなくそう感じました。

取りかかったのが、昨年11月初旬頃だったかな。なかなか進まず、いつの間にか師走に。やはり師走に入ると、絵を描いている場合じゃなくなる。目の前のタスクで必死のぱっち。そうして迎えた一月も、e-Taxとか父の白内障手術とかインフルとか・・ 絵を描くというモードに、なかなかならない。絵を描くというのは、優先順位としては、一番最後。そうした「もどかしい年末年始」を挟んで、本作を描くこととなりました。


印象派の巨匠ということで、どうなるか。描き始めて、その大変さがわかってきた。前回のフェルメールの教訓で、頭部は一番最後に取りかかることにした。まずは背景から・・ しかし、ここで「印象派ならではの難問」に直面したのです。つまり、印象派的な「筆触分割」の技法を、まるっきり同じに描くことは、ぜったいに不可能だということです。大人の塗り絵なので、ある程度の目安の線らしきものはあるのですが、そんなん全然意味ないし。印象派の絵画を「逐語訳」することは、ある意味、印象派を冒涜することでさえある。というか、できないし。

で、相当に戸惑ったんですが、次第に「虎の巻」が分かってきました。つまり「逐語訳」じゃなくて「意訳」でいいんだと。でも、そこで気をつけなければならないのは、作者の作意というか「そこで何を表現したかったのか」を考えること。これ、イレーヌ嬢ご自慢の長くて美しい髪の毛を描いている時に、ふと気がつきました。それまでは、毛髪を「ぺたー」と描いていたんです。でもそれじゃ、髪の毛に「生命」が宿らない。どうしても「動き」が必要なんです。ここで「印象派の技法」が、その実力を発揮するわけですね。

これに気づいてから、ちょっと気が楽になった。クーピーペンシルの走りが鋭くなったというか。思い切りがよくなって、ちょっと掴めたかな?という感触。ペンシルを鋭く削って、シャー、シャーと描いていく。これまさに「意訳」なんですね。「逐語訳」をしていては、ペンシルがこわばって、こうは描けない。印象派の絵画は、いかに「作者の魂を再現するか」なんだと思う。絵画を再現するのではなく。

で、イレーヌ嬢の顔を描く段になって、また壁にぶつかる。あれ?という感じね。背景や着衣や毛髪の「おおざっぱさ」は、ぜんぜん通用しないんです。というか、真逆なんですね。極めて精細に慎重に巧妙に描いてある。これ、実際に取り組んで、初めて実感できることです。このルノワール先生の「神がかり的なギアチェンジ」は、凄いというしかないです。というか、この秘められた「乖離」に、この作品の魅力があるのかもしれない。思うんですけど、イレーヌ嬢の顔は、まったく印象派じゃないです。これ、アトリエで念入りに描いたんじゃないかしら。

イレーヌ嬢の表情は、これがまた再現しにくい。この「幼いようで芯の通る」感じ。顔の肌色には、むらさき系が微妙に使われています。むらさきで影をつくったり、ほのかな青白さを出したり。このむらさきは、イレーヌ嬢の「こわれやすい年代」を、ほんのりと象徴していると思います。さりげない隠し味としてのむらさき。ルノワール先生の「天才」を感じずにはいられません。

最後に。今後はできれば、ふた月に一枚くらいは仕上げたいと思っています。詰将棋もしたいので、年間、四枚くらいかなぁ? ぼちぼち描いていきたいと思います。