セックスは、礼に始まり礼に終わる?

村上さんのQ&Aのコーナー! 今回も「そうだ、村上さんに聞いてみよう」から、質疑応答を抜粋して、まるちょうなりに考察してみたい。

<質問>静岡に住む、30歳、専業主婦です。村上さんのお宅では、「ごちそうさま」の返事は何と言いますか? だいたい「おそまつさまでした」あたりが一般的かな、と思うのですが、うちのだんなさんの実家では、「はい、ごじょうぶに」と言うのです。なんかあったかーい感じがして、いいと思いませんか? 3歳の息子も覚えて、片言で「はい、ごじょうぐに」と言ってくれます。なかなかかわいいですよ。

<村上さんの回答>そうですか。メシ食って丈夫になる、というのが実感として伝わってきます。なかなか良い雰囲気ですよね。あの、それでですね、急にこんなことを言い出すのもなになんですが、ご飯のあとのあいさつがあるように、セックスのあとのあいさつというのもあっていいんじゃないかという気が、するんです。ふと。それでそのときも、お返しのあいさつが「はい、ごじょうぶに」だと、なんとなくいいですよね。そう思いませんか? 「ごちそうさま」はちょっとどうかなあと思いますが。ほんとにくだらないことですみません。


<まるちょうの考察>村上さん、おもしろいこと言わはる。メシとセックスはつながっているのか?(笑) それはさておき・・ 「礼に始まり礼に終わる」というのは、武道においては、いわゆる金科玉条である。将棋なんかもそうです。「お願いします」と一礼してから試合が始まる。そして「参りました」の一礼で試合が終わる。「勝負」がルールに則って、執り行われること。そのプロセスで増幅された「怒気」「謀略」「冷酷」などを、最初と最後の礼節を守ることにより、静かにゼロに戻していく。それにより、将棋なんかは、荒々しい勝負が芸術に昇華しうる。

むかし、関根勤がこんなこと言ってたような気がする。

オナニーは稽古であり、セックスは他流試合である


セックスは、果たして「試合」あるいは「勝負」なのか? まるちょうは、全部がそうでないにしても、そういう要素はあると思う。というか、男女の恋模様なんてものが、そもそも「試合」じゃんかよ。「試合」としてのセックスを見事に描写している文章があるので、紹介します。「家族八景/筒井康隆作」の中の「芝生は緑」という作品より。

(そうか、そんな声をだしたというのか)(そうなの。そんな具合に激しくあの女の髪を掴んだのね)夫婦は自分の空想の正しさを確かめあい、そうすることによって、より激しく燃えあがっていた。(あの男に、こうはできまい)(舌を)(そうなのか。そうなのだな)(今、あの女のことを考えながらわたしと)(あの男の汗)(足を。こうして)(あの女)(あの男)(あいつのことを考えている)(あの女のことを考えられないほどにしてやるわ)(ずたずたにしてやるぞ)「もっと」(ぼろ切れみたいになるまでは、離れてやらないわ)(あんな男には)「ああ。あ」(あの女にだけは負けられないわ) 一瞬の歓喜と自我の崩壊。閃光。吐息。汗汗汗汗汗汗。虚脱感の中で顔を見あわせての照れ臭さと苦笑。



筒井康隆、スゲーな。上記の夫婦は、お互いの浮気を想像して嫉妬に燃え狂い、「ガチの試合」をしてるわけね。でも試合終了とともに、二人は愛をとり戻すんだな。非言語的に、相手を夫として、妻として、ふたたび位置づける。もはや、お互いを無視したり馬鹿にしたり怖れたりする気持ちは、失せている。

個人的に思うのは、セックスは「エントロピーの増大」であるということ。そこにあるのは、拡散であり、ある意味での暴力であり、溶解であり、解放である。とても右脳的な「荒野」には、当然のことながら「礼節による整地」が必要である。それでこそ、セックスが上記のような「癒やしの力」「許し合いの心」を持つことができると思う。つまり、それが昇華ね。セックスのあと「ごちそうさまでした」「いえ、ごじょうぶに」という挨拶があれば、愛は高次元に昇っていくんじゃないかな? そういうの、いいよね。押忍( ー`дー´)キリッ。以上、村上さんのQ&Aのコーナーでした。