横尾忠則インタビュー

かなり前の記事で恐縮なんですが、日経メディカル06年8月号の横尾忠則のインタビューをネタにひとつBlogを書いてみたい。題して「病気が治るプロセスは芸術活動に似ている」。当時とても共感して「これで是非Blogを書こう」と決心して自分の中で温めていたのだが、温めすぎて二年近くも歳月が過ぎてしまった(汗)。まず横尾さんの主張を大まかに記述するために次の部分を引用する。

病気というのは、かかっている最中は苦しいですが、後で振り返って考えると、自分をじっくり見つめ直して向上させるいい機会になっている。結局、僕の生き方にいい影響を与えてくれていると思うんです。(中略)病気は、人の生活を邪魔する悪魔のように思われていますが、本当は、神様と呼ばれて、感謝されたっていいんじゃないかとさえ僕は思っているんです。



かなり極端な物言いだけど、真理は突いていると思う。病気を「転機」と見なすということ。そうした転機の必要性を、神様が愚かな人間に対して行う「通知」・・これが病気の本体ではないかということである。転機を感じ取れない人間は、向上することができない。病気を悪魔として怯えるばかりでは、自己変革はおぼつかない。究極的に言えば、人間は変わるために生きている。そういう観点で見ると、病気が「神様」に思えてくるわけ。

芸術というのは執着や欲望からは生まれにくい。自由な精神から生まれてくる。しかし、そういういわば無心状態になるためには、自分をいったん強く縛りつける。縛りつけて限界まで行ったところで、ぱっと解き放ってやることが必要なんです。そうやりながら、自分を完全にさらけ出すことで、人を感動させるものができる。

まるちょうは、この意見にとても共感するわけ。何かを産み出そうとする時、最初から「無」では、それこそ何も出てこない。ある種の「歪み」が必要なわけです。その歪みに苦悶して格闘して、新たなる自分を見いだしていく。これが芸術だろうと思うし、病が癒える過程というのも、これに似ているんだと思う。病気になることで、自分の「身体」を確かに認知できるようになれる。ひいては、他人の痛み苦しみも共感し易くなる。

絵を創造するときには、頭で考えるのではなく。体の内なる声に忠実であることが大事なんです。頭より体なんです。

「体の内なる声」をしっかり聞き分けるためには、結局病気が必要なのだ。あらゆる歪曲を経験して、初めて「体の内なる声」を鋭敏に聞き取ることができるようになる。病気とはつまるところ、体が発する悲鳴であり、声なのだから。「頭より体」というのは、まるちょうが常日頃から思っていること。頭が先に行き易い昨今、病気はその思い上がった「頭でっかち」を見直すチャンスを与えてくれる。横尾さんの仰るとおり、病気に感謝するのも悪くないと思ったのでした。

以上、かなり前の横尾忠則インタビューをネタに語ってみました。