風の歌を聴け/村上春樹

体調が悪くて、更新できませんでした。もうかなり良くなってきたので、どうかご心配なく。「風の歌を聴け」(村上春樹著)を再読した。10年ほど前に、何故か村上春樹を読もうという気になって「読み始めるのには何がよいか?」という問いにぶつかった。私はいたって素直な人間なので、「やっぱ、デビュー作からでしょ」という感じで、この本を手に取った。で、読み始めたわけだが、はっきり言って苦痛だった。一見して乱雑に40もの細かい節に分かれていて、その当時の印象は「ちぐはぐで何を言いたいのか分からない」だった。


だから、あれから10年経過して、こんなに見方が変わるのかと驚いた。とても面白いのだ。「10年あれば人間は変わる」・・これはあくまでも、まるちょう作の言葉ですが(笑)。

「羊をめぐる冒険」が「青春の終わり」を描いた作品だとすると、本作は「青春そのもの」を描いている。題名にある「風」とは、つまり青春のことだろう。少なくとも、まるちょうはそう感じた。読後、青春を想起させる次のような言葉が思い浮かんだ。

自由、弱さ、レゾン・デートゥルの無さ、傷、彷徨

切なさ、粗野、あてのない怒り、純粋さ、愚劣、孤独
結局、村上さんが、何故こんな散乱したような構成で小説を書いたかというと、そのぶっきらぼうな構成でもって「青春」を表現したかったのではないか。まるちょうには、そう思えてならない。

主な登場人物・・鼠、左指が四本しかない女の子、デレク・ハートフィールド。この三人の共通点は「傷」だろうと思う。人と通じ合おうとして、拒絶された傷。それゆえに、臆病になったり怒ったりするけど、心の奥底では人と繋がりたいと願っている。微かに、しかし確かに。それは祈りに近いかもしれない。そういう状態って、まさに「青春」じゃないですか? だから「僕」が、深い孤独に絶望して泣いている、その四本指の女の子の肩をそっと抱いてやるシーンは、とても胸キュンである。季節は夏。潮の香り、遠い汽笛、女の子の肌の手ざわり、ヘアー・リンスのレモンの匂い、夕暮れの風、淡い希望、そして夏の夢・・ でも、結局はそれだけ。「僕」が夏の終わりに東京に戻るとともに、その微かな繋がりは消え去ってしまう。その辺の「繋がりの希薄さ」といった傾向も、青春といえば青春だ。青春とはさすらいなのだ。

結局、人間とは本来バラバラなものである。これは真実だと思う。この作品では、そういった描写を至る所に見つけることができる。しかし同時に、前述のような「繋がりたい」という祈りも、垣間見ることはできると思う。あとがきで、村上さんがハートフィールドの墓参りをするシーンがある。そしてこの時、村上さんはこの小説を書こうと思うのだ。この部分は、ハートフィールドのある種の「祈り」が村上さんに通じた瞬間だったろう。さりげなく、村上さんなりの「繋がり」を記述して、この作品は終わっている。

まるちょうにとって「青春」とは、過去のものだ。まるちょう自身は、「青春」を美味しく味わえなかった(笑)人だと思っている。しかし、である。結局、どの青春が一番かなんて、誰にも分からないんだろうと思う。メディアに影響されたイメージは、ステレオタイプに過ぎない。例えば、苦々しく辛い思い出ばかりといっても、それが取りも直さず、その人の「青春」かもしれないし。一番大事なのは、忘れないことだろう。いつでも振り返って、当時のことを再考してみることが、要するに「青春を忘れない」ということじゃないかな。「風の歌を聴け」を読んで、そんな風に感じました。