今日もよく働いた。はー、クタクタ。僕はJR琵琶湖線に飛び乗り、補助席をなんとか確保して息をつく。電車内の乗客の顔は、いちように疲労の色が濃い。帰路の電車の色彩というのは、たいていこんなものだ。ボーッとしていると、山科で乳児をお腹に抱えて、両手に買い物袋の姿の女性が乗り込んできた。座席は空いていない。
こうした時、僕は即座に行動に移せないタイプである。なぜかためらってしまう。僕はちょっと腰を浮かせかけたが、同じく補助席に座っておられた年配の男性が、その女性に席をすすめた。女性は丁重に断る。僕は内心「え~、断るんや~」と眺めていた。電車が動き出して、やはり女性はどうみても不安定である。もう一度その年配の男性が、今度はやや強く席をすすめた。今度は女性も「どうもすみません」という感じで、補助席に座られた。
この一連の情景を眺めていて、僕は自分が情けないと思った。「俺はなんでいつもこうなんだろう?」と、ちょっとした劣等感に浸っていた。医師というペルソナを被っている時は、十分に相手を気遣い、手を差し伸べることができる。でもそうした「仮面」を脱いだ「素の状態」では、好意を素直に表出できない。自分の「回避的な側面」を呪う。好意を必要だと分かっていても、ちゃんと相手に示すことができない。あの年配の男性は、二回目はやや「押し売り」だったけど、それはまさに正しい行動だった。あれで女性が倒れたりしたら、それは大変なことだ。
でもね。補助席に座っていたのは、僕を含めて四人いる。つまり、僕を含めて三人とも、その幼子を抱えた女性に席を譲れなかった。まあ、みな疲れ切っているのである。年配の男性は、その後、大津で別の席に座られた。大津では高校生がどっと入ってきて、これは立っていたら、あの女性は危険だったなと思った。
こういう情景とか、心象風景を文章にできないだろうか?などと、ぼんやり考えていた。Blogにまとめるには、連想がとても重要なプロセス。疲れた脳みそで、ない知恵を絞る。例の女性は瀬田で無事、電車を降りていかれた。赤ちゃんがニコニコしていて、とても可愛かった。そのとき! ひとつの霊感が僕の脳裡に舞い降りた。そう、記憶に新しいテニスUSオープンでのあの情景である。大坂なおみとココ・ガウフの試合後エピソード。
僕は彼女たち(インタビュアーも含めて)が何をしゃべっているのかは、ほぼほぼ分からない。ただ「二人に通底する深い痛み」があることは間違いない。ナオミはこの試合には快勝したけど、15歳のココのような惨めな想いは、これまでにさんざん繰り返してきたのだ。そう、試合後にシャワー室で密かに泣くことも。あの悔しい、劣等感にまみれた、怒りにも似た情動のコンプレックス。ナオミはそうしたもの一切を読み取ったのだ。僕はこの映像を見るたびに泣いてしまう。席を譲った年配の方は、その女性と子どもの「さまざまのリスク」を読み取った。それはたくさんの経験から、女性と子どもに対する「弱者としての共感」があったと思う。女性と子どもの地点まで降りていって、ようやく知ることのできる「警告」。経験をこのように「良識」として活かせたら、それはステキだなと思うのです。僕は「押し売りで席を譲る」という行為ができません。ナオミは「押し売り」でココに、一緒にインタビュー受けようと誘った。こういう「大人な押し売り」ができたら、いいんだけどなー!(>_<) そんなことをぼんやり思いつつ、栗東に着いたのでした。