「英国王のスピーチ」(トム・フーパー監督)を観た。私にしては珍しく、公開された年(2011年)に初回限定版のDVDを購入して、見入った。それはやはり、主人公のキャラが自分と重なるからだと思う。Wikiではこう紹介している。「吃音に悩まされたイギリス王ジョージ6世とその治療にあたった植民地出身の平民である言語療法士の友情を史実を基に描いた作品。 第83回アカデミー賞では作品賞など4部門を受賞した」 本作は、とてもしみじみとした感動をもたらす。号泣というのはなかった。でも・・今回、二度目の鑑賞で、その感動はさらに深くなった。良作というのは、大抵そういうものだ。というか、本当に良い作品は、一回観て終わりというのは間違った鑑賞法だと思う。何度も観ないと見えてこない「隠れた部分」というのがあるから。二回観て、いろんな発見があった。2011年は、いわば「半分しか観ていない」ことに気づかされた。次のふたつの軸で語ろうと思う。
#1 交錯するふたつの人生
#2 スピーチのシーンを掘り下げる
今回は#1から。まずは、作品のおおまかな把握のために、予告編をご覧ください。
私 まるちょうは、スピーチが嫌いです。とにかく人前でしゃべるのが苦手。1対1なら大丈夫だが、会議や宴会など、人が多くなると、とたんにダメ。あがり症って言うのかな。専門的には「対人過敏性」という性質なんだけど・・ 48年という歳月が「対人過敏性」に関連したコンプレックスを築き上げた。俺の中にいる、この化け物が、多数の人間を前にすると暴れ出す。多分これから死ぬまで、この内なる「化け物」との闘いになると思っている。
本作の主人公ジョージ六世(コリン・ファース)は、そういう私のよき代弁者である。彼は「吃音」というコンプレックスを、幼い頃から抱えていた。不器用なキャラ、愚直に努力する姿も、自分とだぶる気がする。しかし何といっても、彼は王室の人間である。厳しい躾け、乳母からのいじめ、身体的な矯正など、ありとあらゆるストレスを被ってきたのだ。要するに、吃音は「心身の悲鳴」だったわけね。その根本を見抜いたのが、型破りなセラピスト、ライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)、その人である。
2011年に観たときは、ジョージ六世に対する共感がメインだったけど、実はライオネル・ローグも、自分と共通点があることに気づいた。それは「肩書きなど、まっぴら御免」という姿勢。というか、この人は最低限の資格も持っていなかったわけだけど。要するに「正味で生きる男」だったわけね。いち平民として、偉ぶろうとせず、心に傷を持つ人々を淡々と治療してきた。カンタベリー大主教から「無資格」であることを指摘されても、己のセラピストとしてのキャリアへの自負は、まったく揺らがなかった。彼のまなざしは、常にジョージ六世の「吃音」というトラブルに注がれていた。ある意味で彼は、科学者でありつづけたのだ。生臭い野心とはまったく無縁な、いわば「在野で生きる」人間だったわけね。
まるちょうは、医師免許は辛うじて(笑)持っていますが、内科認定医だの、なんちゃら専門医だの、なんにも持っていません。というか、研修医一年目でコケたので、取りようがないのね。日常診療なんて、もう「素手」でやっとりますわ(笑)。素手で仕事をするということは、何のごまかしも効かないということだ。ローグも、自分の歩いてきた道を信じ、「資格取得」という常識を好まなかったのだと思う。私だって、いっとき医師会の「生涯教育制度」というのをやりかけていたんだけど、ほとんど意味ないと悟って、止めてしまった。やっぱり、自分なりにあれこれ工夫してやっていくしかない。機械的に単位を取って、認定証をもらって・・こういうプロセスに、何の意味があるよ? やはり私は、ローグのような「正味の生き方」が、格好いいと思う。次回は、ジョージ六世のスピーチのシーンを掘り下げてみます。