お題を決めて語るコーナー! 詳細は言えないのだが、先日夫婦で大阪に行く機会があった。そこでD氏という、アート業界では有名な人物のスピーチを拝聴することができた。D氏は写真家であり、教育者であり、実業家でもある。リーダーとしての資質に恵まれた、いかにも人が集まってきそうなタイプ。「清濁併せ呑んで生きてきた」という言葉がピッタリくる感じ。けっこうな年配なんだけど、そのエネルギーたるや、すごいの一言。スピーチの最初は、普通にぼんやり聴いていた。しかし中盤から終盤にかけて、まさに「涙が出そうになる」ほど感銘し、この人物の「カリスマ」を感じずにはいられなかった。(ヒント:教え子さんが、今回のカンヌ映画祭で審査員をしておられます) もちろんスピーチの詳細は、頭から消え去ってしまった。ただ、キメの言葉は印象に残っている。必死に思い出してみます。
人生において表現し続けること、アウトプットしていくことが一番重要です。とにかく継続すること。これが肝心です。そうすればいつか、自分の中の「隠された力」が表に出てきます。そして、表現したものをいかに発信するかも大事。他人に伝わらなければ意味がないから。そして運が良ければ、どこかの誰かに、あるいは「世界に」認められるかもしれない。
こんなことを仰ったような気がする。私はブロガーという立場で、痛く共感した。それはよいとして・・ 私は仕事で「医療」に携わっている。医療もずっと継続していくつもりだけど、医療って「表現」なんだろうか?と。そこで疑問が出てきたわけです。前振りがすごく長くなりました。今回は「医療って『表現』なんだろうか?」というお題で、文章書いてみます。
医療はまず、病気という対象がある。患者が苦しむ原因である「病気」を診断して、その後、適切な治療を施し、治癒に導くという流れ。この「医療の基本の流れ」は、ぶれることは許されない。そこには歴然とした「正解」があり、医療者はその「正解」を求めて思考し行動する。いわば患者おのおのに「真理」が含まれ、医療者はそこにできるだけ近づくことを要求される。こうした観点からは、上記のような「表現」の必要性はないと言える。必要なのは、冷徹な診断力と確かな技能、それのみです。
ただ、ちょっと待って欲しい。患者さんはそれで満足なんだろうか? 氷のような正確さで患者を扱う「マシンのような医療者」って、患者さんは望んでいるだろうか? よく言われるように、医療は科学であり、なおかつサービス業でもある。つまり、対人的な配慮が不可欠な分野なのね。この「対人的な配慮」という側面で、まさに「表現」という行為はあっていいのではないかと。
どんな場面でも「愛想を切らさない」という演技は、医療者として敬愛すべき技術である。これで受診者の心がどれだけ救われるか。例えば外来が七時間つづいたとする。ここでキレて無愛想になる医者は、所詮そこまでである。心の中では「俺の方がしんどいんじゃ、クソが!」と思っていても、それを外に出した瞬間、負けなのだ。それはつまり、サービス業だから。プロとして敗北なわけです。そうした「不屈の演技(笑)」と、前述の「精密な技能」を、医療者は常に要求される。ま、因果な商売ではあります。
さて、医療における「表現」は、その人の人格が見えてこそ、受診者は安心すると思う。だからマニュアル通りの演技は、結局のところ、借り物にすぎない。受診者というのは、医療者の「人格」について、わりと敏感だと思うんだけど。受診者は、よく見ておられる。医療者の表情、視線、体の向き(電カルばかり見ているとか)、話し方(早口、威圧的、穏やか、聞き上手など)、肯定や否定の動作・・ これらは全て医療者の人格からにじみ出てくるものだ。いくら上辺で演技したとしても、こうしたちょっとした所作は、ごまかせない。鈍い受診者もおられると思うけど、切実な病状ほど、そうした「アンテナ」は敏感になると思う。
ぶっちゃけ、心からの共感や同情が、病を癒すことだってあり得るわけです。プラセボ効果なんか、その一例ですよね。つまり、論理だけではない。医療とは、そうした非言語的な「表現」が意外と多いように思うんです。例えば、無免許で何十年も医療活動をやっていたニセ医者とか、たまにいるでしょ? ああいう人は、そうした「非論理的なシンパシー」に秀でた人だと思うのね。何か分からないけど、患者を安心させる術を心得ているわけ。だから医療とは「筋を通して終わり」ではない。患者さんが求めている医療とは、もっと「表現的なもの」だと思うんです。
医療者の叱責や罵倒が、病を悪くすることもあり得る。「無愛想だけど腕はよい医師」というのは、最上ではない。「愛想があって腕もよい医師」が、あくまでも最上です。それは大変難しいことだけど、理念というのは高くあるべきなんです。医療における表現は「受診者への礼節」と言えるかもしれない。医療者はプロである限り、その「表現」を放棄してはいけないと思う。以上「医療って『表現』なんだろうか?」と題して、文章書いてみました。
はじめまして。(^^;
「愛想があって、腕がいまいちの医師」と
「愛想はなく、気分が悪いが腕は最高の医師」ではどちらがいいかというのが
究極の選択となると思います。
私は前者を目標にしております。
ただし、自分の手におえないものは必ず信頼できる施設に紹介する、
これは忘れてはならないと思っています。
世の中、大した腕でもないのに患者を抱え込んで、
ややこしくなってから紹介する先生方もおられるようで、
そうはならないようにするのが私のできる範囲ではないかと考えております。
>カバ先生
おお! O先生!誰かと思ったわ~(笑)
読んでいただき、ありがとうございます。
僕も同じですよ☞「愛想があって、腕がいまいち」
愛想だけは切らさないように、心がけています。
そうそう、患者さんを離すタイミングも大切ですよね。
開業されていると、それはとても神経を使うところでしょうね。
先生、T先生経由で、ちょっとお話うかがってましたが・・
また機会があれば、飲みに行きたいですね(^^)
コメントいただき、ありがとうございました!