ブルーベルベット/デヴィッド・リンチ監督(1)

「ブルーベルベット」(デヴィッド・リンチ監督)を観た。一番初めに観たのは学生の頃。なんのこっちゃかさっぱり理解できず、エンドロールで呆れて笑ってしまった。あれから20年以上経過し、全般的にリテラシーは進化していると思っていた。おそるおそる、もう一度本作を観てみたわけ。するとどうでしょう、めちゃめちゃ面白いではありませんか!(笑) リンチ監督の描こうとしていた「何か」を嗅ぎ取ることができた。昔全然分からなかったことが、分かってくる・・こうした現象は、とても嬉しいことですね。次の二点を軸に、語ってみます。

#1 悪の普遍性について

#2 distinctiveということ

まず#1から。なんといっても冒頭の短いシーン。リンチ監督が描こうとしているテーマが、ここに集約されている。重要なところなので、ちょっと文章化してみます。


晴れ渡る空。綺麗な花が生い茂り、子供たちは元気に登校する。BGM「ブルーベルベット」の穏やかで優しい曲調に癒される。平和に庭で水やりをしている老人。水道の蛇口から水が溢れている。ホースが植木にからまる。水の出がわるい。次第に不穏な空気が流れ出す。そうこうしているうちに、老人は左耳を押さえて苦しみだす。苦悶の表情で倒れる老人。ホースからは、噴水のように水があふれ出る。犬が駆けよって、その水を飲もうとする。犬に慈悲らしきものはない。やがてカメラはそばの草むらへ入っていく。奥へいけばいくほど、暗闇の世界。「ブルーベルベット」のBGMはいつしか消え去り、おどろおどろしい効果音に変わっている。そして闇の向こうにうごめく得体の知れない虫たち。なにかを貪り食っているような音。底知れぬ不安感。


リンチ監督の主張は「悪のありよう」についてだと思う。そのためにはまず「悪としての完成品」を具現化する必要があった。それがフランク(デニス・ホッパー)、その人である。デニス閣下、凄いね~、狂ってるね~、キレてるね~。まさに「悪の権化」を堂々と演じ切っている。本編の「悪さ」が悪すぎて、特典映像のインタビューでわりと普通なので、かえってウケてしまったくらいだ。

さて、ここから私見です。「悪のありよう」とは何か? 悪はまず第一に隠れている。闇の中でうごめいている。一見平和な風景の、ほんの片隅にちりのように「発生」する。全体としては平和なようだけど、その「片隅」では、ぞっとするような恐ろしい出来事が起こっている。その闇の世界では、狂気と欲望と暴力が蔓延し、支配している。そうして、その知られざるゾーンに入った獲物を、容赦なく食い尽くす。

上記のような「悪の実態」は、確かに恐ろしい。しかし、リンチ監督が一番言いたいのはそこじゃないんだな。主人公のジェフリー(カイル・マクラクラン)がドロシー(イザベラ・ロッセリーニ)を抱くシーンがある。ドロシーは性的に倒錯したところがあり、「Hit me!」とジェフリーに懇願する。まともな人間であるジェフリーは、初めは戸惑うが、次第に言う通りドロシーを殴る。そうして倒錯した世界へ、いつしかのめり込んでしまう。普段の世界ではサンディ(ローラ・ダーン)というまともな女の子に近づきつつ、である。裏では、ドロシーとの「闇の交際」を断ち切ることができない。

つまりこういうこと。どんな「善い人間」にも、そうした「暗い闇」あるいは「倒錯した悪」が潜んでいるということ。どんな平和に満ち満ちた世界でも、どこか片隅にそうした「どす黒い悪」が棲みついている。舞台となる「ランバートン」という、どこをどうみても平和でのどかな街に、フランクのような「絶対的な悪」が、その闇の中にはびこっているという現実。ジェフリーに殴られて、悦ぶドロシー。燃え上がる炎。半開きになる唇。リンチ監督は、接写やスロー、そして明と暗の対比を取り入れて見事にこの「悪事」を映像化している。ホントに見事。

個人的にひとつのクライマックスと思っているシーンがある。フランクがジェフリーを半殺しの目に遭わせる。命からがら自宅に戻り、ジェフリーがベッドに座りさめざめと泣くシーン。これはフランクの「悪」と自分の中に潜む「悪」が、実は連続しているという自覚から泣いているのだ。この涙は、とても貴重だと思う。こうした「涙」を忘れることが一番人間として恐ろしい。自分の中にある「闇」「混沌」「どす黒い欲望」・・人間って、こうした自分の深奥にある本質を哀しく思えなくなったら終わりですよ。その点、ジェフリーは正しい。正しい涙。

総括。我々は永遠に自分の中にある「悪」から逃れることはできない・・永遠に。人間という限られた存在において、その哀しい宿命を忘れないことが、せめてもの責務だろうと思う。長くなったので、今回はこれでいったんオシマイ。次回「distinctiveということ」というお題で、文章書こうと思います。