前回に引き続き「うつ病新時代/内海健 作」より。今回は「時代との呼応」というお題で、少し書いてみたい。本書の最終章は、うつ病と時代の関わりについて述べられている。あくまでも著者の私見なんだけど、ある意味当事者である私にとっては、かなりのインパクト、説得力があった。以下、引用してみる。
精神疾患は時代の総体の中で生み出される、と言った。その一方で、精神疾患は時代を反映し、さらには来るべき時代を予兆してきた。というより、すでに到来していながらも、後知恵の愚かさによって鈍重な知性が気づかぬものを、ひそかに告げ知らせてきたのである。
ここで著者が使用するキーワードは「ポストモダン」である。まるちょうは、この言葉の正確な意味を知らなかった。以下、引用が続きますが・・
ポストモダン時代は、ヨーロッパの再建が完了する1950年代の終わり頃から始まったとされ、それを特徴付けるのは「大きな物語の失墜」である。「大きな物語」とは、「人類の進歩」や「プロレタリアートの解放」をはじめとして、「自由」という物語、「革命」という物語、「人間の解放」という物語、「精神の生」という物語であり、近代の人間にとって普遍的な価値を与えるものとして、理論と実践を正当化する役割を果たしてきたものである。
著者曰く、日本では戦後復興というミッションのもとに「高度経済成長」という大きな物語が、ヨーロッパよりも長めに生きながらえた。しかし、80年代に至り、経済的「成功」が達成されるとともに、豊かな消費社会が実現され、その中で記号のゲームに耽るというポストモダニズムが支配的となった。「目的達成=喪失」の図式。「勤勉、節約、服従」といった通俗道徳の没落、価値観の多様化、権威の失墜ないしその存在の不明確化。
「大きな物語」が生きている社会では、「メランコリー型」という従来のうつ病の存在意義はあった。「几帳面」「秩序愛」「対他配慮」といった性格をもつ人、あるいは「他から確実人として信頼され、模範として褒められている種の人」が陥る疾患だった。しかし、ポストモダン時代へ雪崩のように突入していくにつれ、気分障害において重大な質的変化が起こっている。著者は「双極2型障害」という切り口を提案する。そこでは、メランコリー型のような「大きな同一化」は困難であり、いったん発症すると、依って立つ基盤、回帰する場所を見出すことができない。そうした状況で生ずるのは、痛ましい空虚感である。「自分が存在してよいものか」というヒリヒリする臨界点。そうして現在、多くの臨床家が、リストカットや過量服薬、過食嘔吐などのダークサイドの噴出に戸惑っている。
さて、4月29日放送のNHKスペシャル「職場を襲う”新型うつ”」を観られた方も多いと思う。このBlogを書くにあたり、ぜひとも観るべき番組だったのだが、見逃してしまった。仕方ないので、ウェブから情報を収集した。参考にした動画を載っけておく。
「新型うつ」という現象は、対人関係において幼稚であり、理不尽に対する耐性が極めて低く、小学生のようなロジックで自らに否定的な他者を否定し、そういう他者を容認できない現象である。
だから厳密には、精神病理の視点とは異なってくるかと思う。ただ、オーバーラップする部分も多い。例えば、その病因論を「アイデンティティの未確立」「対人関係経験の少なさ」「コミュニケーション能力の低さ」に求める点など。そして「社会秩序重視から個人関係重視の社会変化」☞これは著者の「ポストモダン論」に限りなく近いと思う。
放送当時のTwitterでは「意味のないレッテル張り」「新型ってなんなの?」などのつぶやきが多数あったと思うけど、職場で実際に起きている困った社会現象、そして精神医療において著者が実感している「気分障害の質的変化」等々を総合して考えるべきかと思う。つまり総括すると「何かが起こりつつある。しかし、その実体はまだ精確に摑めていない。でも、その探求、同定をおろそかにすると、将来痛い目に遭うのは我々自身である」ということになる。Twitterで上記のようにうそぶいている輩なんてのは、結局冒頭の「鈍重な知性」のことかと思う。Twitter自体が極めてポストモダン的なツールであり、著者の言葉を借りれば「小さな差異のたわむれ」が創出するネット空間ということになる。我々自身が「歴史の終わり(by 浅田彰)」を生きているという自覚が必要だと思う。決して時代のいいなりになってはいけない。人生はゲームではないのである。最後は偉そうになりました(汗)が、二回に分けて「うつ病新時代」について語りました。