白痴/ドストエフスキー作

「白痴/ドストエフスキー作(全三巻)」を読んだ。最終の減薬を挟んで読んだので、第二巻がなかなか読めず、結局読了するのにまるまる一年かかってしまった。ただ、それだけの苦労をする価値はあったと思う。こうした「世界的名作」というのは、一回読んだくらいでは、ちゃんとした理解はできないというのが持論です。だから本作に対する自分の意見というのは、しっかりとは定まってはいない。でもいったん読了して、現時点での感想のようなものを、Blogとして書き留めておくのもいいかなと。

まず「白痴」というタイトルについて。これは読んでいない人にとっては「素朴な疑問」だろう。ずばり「白痴」とは、主人公ムィシキン公爵のことを指しています。英語で言えば「idiot」という単語になる。例えばダウンタウンの名作コント「アホアホマン」も、英訳すればidiotだし、確か映画「フォレスト・ガンプ」でも主人公はidiotと馬鹿にされていた記憶がある。要するに、知能指数が低い、バカ者、という感じかな。でも私があえて訳するとすれば「おばかさん」と訳したいね。蛇足ながら「idiot box」とは俗語でテレビのこと。

ムィシキン公爵は、いたるところでidiotと呼ばれるのだが、知的な障害は全くない。いや、癲癇(てんかん)に関連した脳障害はあったのだが、スイスで治療をいったん終えてロシアに出てくるわけです。公爵は、むしろ知的すぎるくらい知的だ。聡明で思慮深く、高潔で純朴。では何を以て「白痴」なのか? 彼の一番の欠陥は「戦略性のなさ」です。他人を「敵と味方」に区別することができない。はてしなく人を信用してしまう。したがって「偏愛」という行為が、絶望的に不可能なのね。あまねく愛しちゃう。でもこれ、いざ恋愛するとして、致命的と思わない? あまねき愛を許されるのは、神様だけなのに。


公爵は作中、ナスターシヤ・フィリッポヴナという絶世の美女と宿命的な恋愛に堕ちる。この女性は、これまた一筋縄でいかない人物である。この複雑なキャラをもとに「女という病について」という文章を書こうとしたが、今回は見送りとする。やはり読み込みが足りない。さて、前述の「宿命的な恋愛」はうまくいかず、公爵は、これまた極めて美しいアグラーヤという女性と恋仲となる。しかし、ふたりの女性の隠密の闘いはつづき・・ 悲劇的な結末となってしまう(詳細は伏せますが)。印象的な公爵と友人のやりとりを載っけておきます。

「僕は心から彼女(ナスターシヤ・フィリッポヴナ)を愛していますよ! だってあれは子供なんですから。(中略)ああ、あなたは何も知らないんだ!」「でもあなたは同時にアグラーヤさんにも、愛していると断言されましたよね?」「ええ、そうです、そうです!」「なんですって? すると、二人とも愛したいというのですか?」「ええ、そうです、そうです!」「待って下さいよ、公爵、何を言っているんですか、目を覚ましてください!」



この「まぬけな公爵」をみていると、若い頃の自分を思い出してしまう。苦虫を噛み潰すような顔になってしまう。「人を信じる」ことって、なんて唐変木なんだろう。若い頃の私は、信じることの天才だった。そうした「甘い博愛主義」は、部活のキャプテンになって、一気に打ち砕かれた。組織のトップに必要なのは「無責任な信用」ではなく、懐疑に基づいた機敏な行動だったから。いわゆるマキャベリズムね。人を疑うというスキルがなかった私は、キャプテンの一年間でズタズタに心を切り刻まれた。組織ってこんなに怖いものかと、震えあがった。人々の心に棲む「悪しき魂」に脅かされ、眉間をまっぷたつに叩き割られた。

俺ってなんだろう?と、ようやく自問自答し始めたのが、その後(24歳頃)だもんね。遅すぎるよね。今ではもちろん「適当な懐疑」を持ちながら、対人関係に臨んでいます。100%相手を信じるのは、対人スキルの初歩の初歩で誤っている。「人間失格/太宰治作」のなかで「無垢の信頼心は罪なりや?」という言葉があるけど、これは罪です。人間失格です、厳しいようだけど。

閑話休題。ムィシキン公爵は、三角関係という状況でも「どちらかの女を、自分の責任において選び取る」ことができない。自分が生き残るために、どちらを選ぶべきなのか、考えようともしない。そう、彼には「生き残る」という意志が薄いと思われる。どこかに「自分は喜んで滅びよう」という姿勢が見え隠れする。これ、格好いいようで、すごく無責任なんです。神様じゃないんだから、限られた存在として「いかにして生き残るか」を必死で考え抜くのが、人間の使命だ。彼はそれを端から放棄している。若い頃の自分をみているようで、嫌になる。ゆるい自殺願望。自分が無限であるという、愚かな幻想。

私見では、ムィシキン公爵は、ナスターシヤ・フィリッポヴナを見捨てて、アグラーヤと結ばれるべきだった。病んだ魂は放っておいて、健全なる結婚をして幸せになるべきだった。確かに、あまねく愛するということは、無条件に美しい。でもその彼方には、必ず破滅が待ち構えている。私にとって、ムィシキン公爵は反面教師である。美しくても生き残らねば、人生の意味は相当に薄れる。本当の意味でのidiot=白痴と成り果てた、ラストのムィシキン公爵の惨状を、頭に焼きつけよう。人生に戦略は、不可欠である。それはこの世に生を受けた人間として、ある意味で責務とさえ言えると思う。以上「白痴」についての簡単な感想を記しました。